戸隠信仰一口メモ
現代語で読む戸隠伝承 は こちち → クリック

戸隠古道

               「上水内郡誌」より加工


天の岩戸伝承
 天照大神
(あまてらすおおみかみ)の弟の素戔鳴命(すさのおのみこと)が高天原に上ってきて乱暴を働きます。当惑した天照大神は天の岩屋戸に隠れてしまいますので天上も下界も真っ暗闇で、神々も大弱り。そこで思兼命(おもいかねのみこと)が一計を案じて鈿女命(うずめのみこと)に岩屋戸の前で踊りをさせ、神々も大騒ぎ。不審に思った天照大神がそっと岩戸を明けると、戸の脇に隠れていた手力雄命(たじからおのみこと)が手を取って引き出し、岩戸を下界に投げ飛ばします。落ちた岩戸が山となったのが戸隠山です。
もっと読みたい→岩戸開きの神々の物語

戸隠神社の祭神 
岩戸伝承に関係する神々が祭られています。奧社は岩戸を投げた天手力雄命
(あめのたぢからおのみこと)、中社は天照大神を岩屋から引き出す一計を案じた天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)、宝光社は手力雄命の弟の天表春命(あめのうわはるのみこと)、この兄弟は八意思兼命の子供と言うことになっています。火之御子社は岩戸の前で踊った天鈿女命(あめのうずめのみこと)、九頭龍社は地主の神である九頭龍大神です。なお、九頭龍大神は九頭龍権現・岩戸守(いわともりのかみ)といわれることもあります。

中院の創建
『顕光寺流記并序』には、

後堀川院の御代、寛治元年(一〇八七年)四月八日、時の別当が「元来当山は三院であるべき」との瑞夢(ずいむ)をみて、奥院と宝光院の中間に四神相応しじんそうおうの地を撰び、二院の房舎を分けて一院を創立した本院より極楽坊・自在坊、宝光院より西明坊・東光坊。釈迦権現を本尊とする。富岡院という。今中間にあるので中院という。

とあります。

式年大祭御輿 
戸隠神社の式年大祭は、丑年と未年の六年毎に行われます。昔は奥社(本社)まで御神輿が渡御されていたそうで、宝光社と中社の御祭神は、奥社の天手力雄命から委任されていて、それぞれの御社で御神業を行い、これを奥社に御報告なされる祭といわれています。現在の式年大祭では宝光社の神様が、御父神である中社の神様のもとに渡御され、父子のご対面をなされることになっています。江戸時代に作られた宝光社の御輿を中社まで担ぎ上げる大がかりな行事で、往きが渡御の儀、約二週間の御同座を経ての帰りを還御の儀といいます。三キロの道中を、重さ百六十貫(約六○○キロ)の神輿にご神体を戴き、約二時間かけてゆっくりと進み、前後には、神楽、神楽装束、稚児、戸隠各地区の山車・獅子などの行列が連なります。


天の鈿女命
奈良時代の『古事記』や『日本書紀』は手軽に読めるものではなく、平安時代の『先代旧事本紀』という書物から神話の伝承は広まったといいます。そこにはちと露わな描写ですが、次のように書かれています。

天の鈿売(うずめ)の命(みこと)が、天の香山(かぐやま)の真坂樹(まさかき)を鬘(みかつちら)とし、天の香山の日蘿懸(ひかげ)を手繦(たすき)とし、また天の鈿売の命の手繦に天の香山の天蘿(あまかげ)を懸け、そして天の香山の真坂樹を鬘とし、天の香山の小竹(ささ)の葉を手草(たぐさ)とし、手に鐸(さなぎ)を付けた矛を持って、天の石窟戸(いわやど)の前に立ち、庭燎(にわび)を焚いて巧みに面白おかしく振る舞った。天の鈿売は庭火を焚いて中がうつろな箱を置き、踏み轟かせて神懸(かみがかり)りした。そして胸の乳、裳緒(ものを)を陰部にまで押し下げて垂らすと、高天原がどよめいて、八百万の神が共に笑った。

この後、不審に思った天照大神が戸をそっと開けたときに手力雄命が活躍するのですが、中社の拝殿に鈿女命のこの場面の額が掲げられていますが、おとなし目に描かれています。
参照→天の岩戸伝承

院坊旅館
院坊旅館というのは、明治の神仏判然令によって、戸隠が顕光寺から戸隠神社になった時に、それまで参詣の信徒を迎えていた寺の院坊が、従来通りに信徒を迎えるために旅館となったものです。それぞれの旅館では、いまでも「○○旅館・旧□□院・△△坊」などの名を掲げています。
建物は客殿部と居住部である庫裡部
(くりぶ)からなり、客殿部には神殿と参拝者が参籠する広間があり、正面には出入り口として前方に張り出した向拝(こうはい)を備えています。
参拝の宿一覧」を参照下さい。

一の宮
諸国の由緒ある神社で、その国の第一位に待遇される神社(また、一郡、一郷あるいは一社中の各社殿の内、一位に遇せられるもの)を一の宮といいます。もっとも「第一位に待遇される」の意味が不確かで、国の長である国司が巡拝する最初の社とか、その国の人々が国の守護神としている社とかいわれていて、時に一の宮争いもあったようです。信濃国の一の宮は諏訪大社になっています。

仁王門・随神門
戸隠神社は明治に神社となるまでは、神仏習合の顕光寺という寺でしたから、宝光院(宝光社)、中院(中社)、奥院(奧社)にはそれぞれ仁王門がありました。しかし、神仏分離の結果として、宝光院の仁王は長野市稲里町下氷鉋の善導寺、中院の仁王は小布施町の岩松院、奥院の仁王は善光寺隣の寛永寺に移りました。
仁王さまの代わりに随神さまが置かれて随神門となりましたが、火事で焼失したりして残っているのは奧社の随神門だけです。なお、一般には随「身」門といいますが戸隠神社では随「神」門と称しています。随神の名は左が櫛石窓ノ神
(くしいわまどのかみ)、右が豊石窓ノ神(とよいわまどのかみ)で、天照大御神の孫である邇邇藝命(ににぎのみこと)が、葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)を治めるために、高天原から日向国(ひゅうがのくに)の高千穂峰へ天降(あまくだ)った時にお供した神様です。

法華経
詩や譬喩・象徴を主とした文学的な表現によって、仏の真の教えは唯一であり,人間をはじめすべての生き物(衆生・しゆじよう)が成仏できると説く教法。この法華経を書写し読誦し教えを守って修行した者を持経者といい、奧社道(男道)にある釈長明火定の跡で、長明という持経者は平安時代末期に生きながら身を火に焼いて兜率天に往生しています。戸隠神社には重要文化財である平安時代の法華経があり、宝物館に展示されています。また奧社参道には大乗妙典一字一石書写碑や法華経に登場する多宝如来を祭った多宝塔があります。

牙笏(げしゃく)
全国に現存する服飾品としての牙笏はすべてで6枚。戸隠神社以外では、正倉院に3枚、法隆寺に伝来し現在は東京国立博物館にあるものが1枚、河内道明寺天満宮に伝わる菅原道真の遺品6種の中に1枚あるのが知られているだけです。このうち、象牙製が4枚で、正倉院に2枚、菅原道真の遺品として1枚、そして戸隠神社のものが1枚です。正倉院の1枚と法隆寺に伝来した1枚は鯨の骨製です。戸隠神社の牙笏は、正倉院の通天牙笏とその大きさに1ミリほどの違いがあるだけの、まったくの同型といっていいもので、中社の宝物館で拝観できます。


神仏混淆(こんこう)・神仏習合(しゅうごう)
 聖徳太子の時代に日本に仏教が入ってきますが、次第に日本の神道と融合していきます。これが神仏混淆(神仏習合)で、仏が神となって現れるなどと考えられてきました(本地垂迹説)。江戸時代まで戸隠は顕光寺という寺でしたが、奥院の手力雄命は聖観音、中院の思兼命は釈迦、宝光社の表春命は将軍地蔵などと考えられていました。宝物館の江戸時代の地図をみると。寺とも思えるし神社とも思えるような図になっています。今は神社ですから鳥居があって当然ですが、江戸時代にもありました。

神仏分離 (廃仏毀釈はいぶつきしゃく
明治政府は神仏混交を改めて神仏分離の政策をとります。神仏混交でしたから寺になるにしても、神社になるにしてもそれなりの根拠があるのですが、この時に多くの寺が神社に変わり、戸隠の顕光寺も戸隠神社となりました。奥院は奧社、中院は中社、宝光院は宝光社と名も変わり、奥院の観音像は東御市の長泉寺へ、奥院の仁王門は随身門(随神門)となり、仁王像は善光寺の隣の寛慶寺に移りました。寺によっては神仏分離が廃仏毀釈となり、諏訪大社には別当寺があったのですが、いまは跡形もありません。戸隠での破壊は、人里離れた道標の梵字や院の字が削られる程度で、おだやかに仏たちは神社の境内を出て行きました。

九頭龍伝承
学門行者
九頭龍大神(九頭龍権現)は山岳信仰から始まった戸隠信仰の中心で、かっては長命や幸せを願ったり、呪詛
(じゅそ)を避けたりと、いろいろな利益(りやく)を誇りましたが、江戸時代になると、水の神様ともなって広く農民に信仰されました。次のような伝承があります。
嘉祥二年、学門行者が飯綱山から金剛杵
(こんごうしょ)を投じると、戸隠山の宝窟で光を放った。行者がこの窟で、地主神を呼び出そうと祈念すると、聖観音・千手・釈迦・地蔵の像が地中から湧きだした。なおも経を読むと、九頭一尾の大龍がやって来て言う。「我は仏様の物をないがしろにしたので、蛇の身になってしまったが、お前の唱える法華経で解脱を得た。それで未来永遠にわたり此山を守護しよう。この山は両界山といい三十三所の窟があり、観世音菩薩が現れてお会いできる。一度この山に登れば死後の世界での苦を逃れ、苦しい運命も変えることができる」。言い終わって、九頭一尾の大龍は本窟に還った。その時に大盤石をもって本窟の戸を閉ざしたので、戸隠という。また金剛杵の光を顕わしたので顕光寺という。
もっと読みたい→九頭龍と仏の物語

役行者
役小角(えんのおずの)とも。日本の山岳宗教である修験道(しゅげんどう)の開祖として戸隠でも崇拝されていました。実在を疑う人もありますが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』文武天皇3年(699)5月24日条に、伊豆島に流罪された記述があります。吉野金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)、その他多くの山を開いたといいます。伝承では雲に乗って仙人と遊び、鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が文武天皇に謀反を讒言。天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられて伊豆大島に流された。昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。後に赦されて帰り、仙人となって天に飛び去ったといいます。
もっと読みたい→役の小角と九頭龍

修験者
修験者は役小角(えんのおづの)を開祖とし、護摩(ごま)を焚き呪文(じゅもん)を誦し祈祷を行い、山中に入って難行・苦行を行う山林斗藪(とそう)に励み、霊験を修得し、人々の苦難の解決にあたります。密教の一種ですが、神仏いずれにも仕え、多くは本山派修験(天台山伏)と当山派修験(真言山伏)に分かれます。派が明確でない山伏も多く、各地を巡るので間諜(かんちょう)として活躍する者もいたようです。


種池
江戸時代の「戸隠霊験譚」より。
以前、申年の秋のころ、越後国頸城郡の藤崎と百川という二つの村から奥院安住院へ請雨の祈祷を頼みにきたので、深く祈念して種ケ池のお水を与えた。この水は種水といって道中でも下に置くことはできず、一七日の間、施主の方に置いて祈り、七日を経れば当山へ持ち帰って種ケ池へ戻すことになっている。
百川村で三日と半日祈ったが空は晴れ渡り雨の降る様子もみえない。藤崎村からお水を受け取りに来たので、村境の川岸まで百川村の者どもがお水を持参。ここで藤崎村の者へ渡したら、たちまち雲が起こりおびただしく雨が降り出したので、みんなして喜び合った。けれどもこの二つの村以外はちょっとした小雨であったという。不思議なことである。
もっと読みたい九頭龍権現の霊験

三十三窟
奥社の背後に聳える戸隠山には、手力雄命と九頭龍を祀ったそれぞれの窟を含め、不動窟、仙人窟、毘沙門窟など三十三窟といわれる修行の場がありました。最大の西窟から出土した密教の六器、同時に発掘された仏手・花瓶・蓮弁・観音菩薩像は宝物館に展示されています。

十三仏
仏教では、亡者の法事を行う初七日から三十三回忌まで十三回の追善供養に、本尊とする十三の仏と菩薩をあてています。一不動、二釈迦、三文殊、四普賢、五地蔵、六弥勒、七薬師、八観音、九勢至、十阿弥陀、十一阿閦、十二大日、十三虚空蔵です。これを山の所々に順に配して祭ることが行われていて、飯縄山にも戸隠裏山にもあります。裏山の場合、戸隠牧場から大洞沢を登り切った鞍部が最初の一不動で、そのまま地名になっています。さらに進めば五地蔵とこれも山の名称。戸隠連山最高峰の高妻山は十阿弥陀で、最後は十三の虚空蔵菩薩です。

追善と逆修
ついぜん ぎゃくしゅう
死者の冥福(死後の幸福)を祈って仏事を営み、死者の悪業を軽減し、除去することが追善で、人の死後七日目(初七日)ごとに 四十九日までと、百ヵ日、一周忌などに亡者の冥福を祈って法要を行います。生きているうちに、あらかじめ自身の死後の冥福を祈って仏事を行なうことが逆修。

女人禁制
霊場で一定の地域に女性の入るのを禁じていること。女人結界ともいい、女性は不浄だからとも、女性は修行者の心を乱すからともいいます。高野山、比叡山など結界を設けた全国の霊山は多くあり、地方でも立山や白山もそうでした。明治になると各地で次第に解かれ、戸隠で奧社(奥院)への禁制が解かれたのは明治四年です。奧院へ行く道を男道といっていました。


伏拝所ふしょおがみしょ
現在の伏拝所と宝光院の位置関係がすこしずれているのが気になりますが、『顕光寺流記并序』によれば次のような話になっています。
康平元年(一〇五八年)八月二六日に、本院から五十町ばかり下の大木の梢に光りを放って輝くモノがある。人々が不思議に思ってこれを見れば御正体
(みしょうたい)であった。その時、十二、三歳の女の子が身もだえして苦しみ、地に横たわって気絶した。どうしたのかと問うと、「我は当山三所権現の先駆けで左方に立つ地蔵権現である。さて、奥院は結界の地であって、女人は閉め出されている。それゆえ仏様の思いと違い衆生済度の誓願もままならず人々を救うのも希である。できればここに堂を建てて我を安置しなさい」と。人々は疑って、「本当に神託ならばここにいる僧俗の誰かの袂にお移り下さい」と申し上げ、それぞれ強く念じる中に、一人の坊さんがいた。その袖に飛び移ったので、これを拝すると、地蔵薩埵(さった)の尊像であった。日をおかずに社を造り庵室を建てた。求法房がこれである。御正体が飛んできた所を「伏拝」という。初めは福岡院といっていたが後に宝光院というようになった。

兜率往生・極楽往生
仏教では生死を繰り返すと考えますが、死んで往く先は一般に地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道のどこか、またはこれら六道とは別の極楽浄土です。宗派によって異なりますが、いまでは極楽往生がいい、ということに一般にはなっています。しかし、極楽往生が盛んに望まれるようになる前は、天道のひとつで、弥勒菩薩のいる兜率天往生(兜率往生)が望まれていた時代がありました。長明が兜率天に上ったということは、戸隠にもそのような修行僧がいたということでしょう。
弥勒菩薩は釈迦の次に仏となることを約束された菩薩で、五十六億七千万年後に兜率天から人間の世界に下りてきて人々を教化するとされています。長明もその間、弥勒菩薩の下で教えを受けることになります。

徳川家康から戸隠に与えられた千石

戸隠神社の前身の顕光寺は、徳川家康から千石(千石の年貢を取り立てることのできる領地)を貰っていました。五百石は顕光寺の別当の勸修院が、三百石は奥院衆徒が、二百石は火之御子社の栗田家が得ています。中院と宝光院の衆徒は戸隠講の信者からの収入が十分あるという理由でありませんでした。火之御子社は神仏習合時代にも栗田家という神職が中心になって奉仕した社で、千石の内、二百石ももらっています。ここだけで二百石は多いような気がしますが、栗田氏は江戸時代以前に戸隠の別当も出した家柄で、この栗田氏が持っていた二百石に八百石を加えて千石にしたのが歴史的な経過なので、栗田氏の二百石は既得権だったかもしれません。千石の領地というのは戸隠近くの二条、上楠川などで、興味深いのは現市街地の栗田もそうだったことです。


別当寛永寺
別当にもいろいろな意味がありますが、一山の寺務を統轄する長を別当といいます。戸隠の顕光寺は初めは比叡山延暦寺の末寺でしたが、江戸時代になると江戸は上野の東叡山寛永寺の末寺になります。幕府が天台宗の寺院を東西に分け、東を寛永寺の支配下に置いたためです。一山の寺務といっても戸隠は千石の藩のようなもので、領内を取り締まる奉行もいました。その支配者が別当で、寛永寺から派遣されてきます。地元には院坊を構成する衆徒が居て、時に別当と対立したりもしました。なお顕光寺の下には戸隠領以外の地域の寺も属し、幕府の寺社奉行からの命令は顕光寺を通してなされました。

守護不入
鎌倉時代や室町時代に、幕府が、守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたことをいいますが、江戸時代にも幕府が寺社などに与えた土地は周りの藩からの権力が及ばないようになっていました。しかし、藩と寺社領との関係はかなり微妙で、千石を与えられた顕光寺は、つまり千石の年貢を取り立てることの出来る村を与えられた顕光寺は、その朱印状を当初は幕府から直接与えられていましたが、次第に隣の松代藩経由で与えられるようになりました。また松代藩との間で、農民の入会地の争いもおこるようになりました。十万石の松代藩と張り合うのは大変であったと思いますが、江戸中期の別当であった乗因は、守護不入の碑を建てて独立の気概を示したと言います。ただ江戸の寛永寺から派遣されてきた乗因はたいそう個性的な人物で、戸隠で数々の改革を打ち出しました。そのために地元の衆徒との間で摩擦を起こし、本寺の寛永寺にも楯突いたので遠島になってしまいました。


雪舟事件
(そりじけん)

薪の切り出し権利などに関する争いです。安永九年(1780年)三月に宝光院衆徒の一人福寿院が、中院の門前百姓文七から薪を購入して雪舟で引いて帰ろうとするのを、中院衆徒の宝泉院が中院内での橇引きは中院の者に限る掟があるといって差し止めました。双方相手を不当として別当の勧修院に訴えますが、裁定は中院有利となり、宝光院衆徒は抗議のために全員で院坊を出て、本寺の上野の寛永寺や寺社奉行に越訴(えっそ)しましたが、敗訴。そのために宝光院に戻ることも出来ず追放となり、他国に没することになります。なお、院という組織や建物や敷地は衆徒個人のものではありませんから、宝光院の各院へは中院から人を分けて移りました。

戸隠講
戸隠講は、院坊の各御師(衆徒)たちが、信濃や越後をはじめ主として東日本の各地にそれぞれ作った信者の組織で、江戸の天保時代には総数八万軒余りあったといわれています。農業を営む百姓を中心に、町人・大名・家中も戸隠信仰を支える檀那になっていました。講員は毎年戸隠から来る御師からお札などを受け取り、かわりに農産物などを渡しました。講には昔の旅行団体のような面もあり、宝光社や中社の参道の両側に現代でも古風な旅館が建ち並びますが、○○旅館の文字と共に、元□□院とか元△△房と書かれています。各地の講はそれぞれがこの元院房(旅館)に属していて、旅館(元院房)の主人を現在は聚長といい、いまでもそれぞれの講をまとめています。現在でも地域の講を代表して元院房(旅館)を拠り所として参詣に来る人たちもいて、講員の人たちには「御種兆(おんたねうらかた)」といって穀物、養蚕、果実などの作柄を予告したものなどが配布されます。また聚長たちは神主の資格を持ち、総代会に集まって宮司を中心にする神職の方々と共に戸隠神社の運営を支えています。


三本杉

ハの杉(神社に向かって左、久山館前)   目通り16メートル  高さ目測38メートル 
ロの杉(神社に向かって右、うずら屋の横) 目通り9.4メートル 高さ目測42メートル
イの杉(石段上にあるもの)          目通り7.3メートル高さ目測37メートル


滝澤馬琴
(南総里見八犬伝)
江戸末期の戯作者(
げさくしゃ1967〜1848)。勧善懲悪を標榜(ひょうぼう)しつつ、雄大な構想と豊かな伝奇性を備えた長編の読本に力作が多くあります。「傾城水滸伝」(けいせいすいこでん)では戸隠の架空の村・女郎花村(おみなえしむら)が舞台の一つとなっています。都の女武芸者から武術を習った村長の娘が三人の盗賊を屈服させてよしみを通じ、盗賊を捕らえようと攻め寄せる軍を退けるなど鬼女紅葉伝承にも影響を与えています。
「南総里見八犬伝」は室町時代に敵の大将をかみ殺した里見家の飼い犬と伏姫の間に生まれたとする八犬士が、お家を守って奮闘する数奇な物語です。

山田美妙
言文一致体の先駆者である小説家、新体詩人、国語学者で、尾崎紅葉らと硯友社(けんゆうしゃ)を起こして「我楽多文庫」(がらくたぶんこ)を発行。小説に「武蔵野」「蝴蝶」などがあります。明治二十二年の夏に戸隠を訪れて「戸隠山紀行」を残しています。「戸隠山紀行」は一種のガイドブックといってよく、親鸞上人が大峰山の道の険しさに弱り果て、荒安にたどりついてホッとして、「あら、安」と喜んだ、だから、この村は荒安村。そんな地名伝説も紹介しています。

川端康成
小説家(1899~1972) で、横光利一らと「文芸時代」を創刊し、新感覚派文学運動に関わります。作品に「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「山の音」「眠れる美女」など。昭和四三年ノーベル文学賞受賞。昭和11、12年に戸隠を訪れて「牧歌」を発表しています。宝光社の神官の知子という美しい娘が、主人公を柏原の駅まで迎えに行き、一緒に一茶の旧宅を訪ね、共に戸隠行きのバスに乗り、牧場の前で途中下車し、奥社に参拝。翌日、中社に奉納された神楽を、主人公とともに見ています。日中戦争がすでに始まっていて、二人でたずねた奥社ではたくさんの戦勝祈願の旗がゆれていて、知子は戦地の兄に思いをはせるといった話です。


戸かくし姫

  山は鋸の歯の形
  冬になれば 人は往かず
  峰の風に 屋根と木が鳴る
  こうこうと鳴ると云ふ
  「そんなに こうこうつて鳴りますか」
  私の問ひに娘は皓い歯を見せた
  遠くの簿は夢のやう
  「美しい時ばかりはございません」

  初冬の山は不開の間
  峰吹く風をききながら 不開の間では
  坊の娘がお茶をたててゐる
  二十を越すと早いものと 娘は年齢を云はなかつた

鬼女紅葉
明治十九年に刊行された『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之伝』と地元の伝承が結びついた話。
応天門放火の陰謀で大納言・伴善男は伊豆に流され、その後奥州に移った子孫の笹丸は娘・呉葉
(くれは)と共に京に出る。呉羽はその美貌で源の経基(つねもと)の寵愛を受けて子を宿し、御台所を呪い殺そうとしたが失敗、紅葉親子は戸隠山の奥に捨てられる。紅葉は、言葉巧みに村人をだまし、黒姫山の盗賊団や七十人力の鬼のおまんも手下となる。そこで安和二年七月、紅葉退治の命が平維茂(これもち)に下って戦いとなるが、紅葉の幻術に維茂軍は苦戦。しかし維茂は神仏の助力を得て紅葉を亡ぼす。鬼のおまんは落ち延び、戸隠の僧寛明の手で尼にしてもらった上で自害。
こんな話ですが、最近では鬼女は実は善い女性で貴女だという話も流布しています。
もっと読みたい→ 平の維茂と鬼女紅葉

蕎麦
戸隠は年平均気温が二○度前後で昼夜の温度差があり、霧の発生する高冷地として霧下蕎麦といわれる良質な蕎麦を産します。宝永六年(一七○九)の「奥院燈明役勤方覚帳」によれば、祭礼の時に神前に蕎麦を供え、別当はじめ、衆徒(現在の聚長)に「蕎麦切」を振る舞ったとされています。江戸時代中期の俳人・与謝蕪村が「鬼すだく戸隠のふもとそばの花」という句を詠んでいるので、戸隠の蕎麦は、戸隠の鬼とともに広く知れ渡っていました。小林一茶が、つけ汁に最適な戸隠の辛み大根を知人に贈ったという話も知られています。「ぼっち盛り」と呼ばれる独特の盛り付けをします。

戸隠の山々
戸隠山とは、大きくは西岳(2030米)と戸隠山(1904米)を指します。太古の海底に堆積した硬い溶岩が地殻変動で隆起し、湾曲した片側が風化し、崩れ落ちた山で、そのために切り立っています。地殻が隆起した後で噴火した飯綱山や黒姫山が丸みを帯びているのとは対照的です。戸隠山の北西の端から戸隠裏山になり、五地蔵山(1998米)、高妻山(2353米)、乙妻山(2318米)と続きます。乙妻山の手前のピーク(2297米)が、実は昔の乙妻山です。現在の乙妻山は両界山といって岩に兩界曼陀羅の現れる信仰の対象で、昔の乙妻山から遙拝したと言います。2297米のピークを最近では中妻山という人もいます。


セガイ造り (船枻造り)




竹細工
戸隠の門前百姓は仁王門の外に住み、中院の百姓は領内の竹と竹の子の採取と売買が許されていました。かっては竹細工が主で農業が副業、ザルや箕(み)を造り、日本の養蚕業の発達と共に蚕籠なども盛んに作られました。近年は、ビニール、プラスチック製品に押されて生産量は減少しましたが、根曲り竹の竹細工は弾力があり、堅牢で手作りの暖かさがあって、一家相伝の技を継承、長野県の伝統工芸品に指定されています。
ちなみに中社の竹の免許に対して、宝光社は薪木を取ったり炭焼きをする免許を持っていました。

河鍋暁斎 (かわなべきょうさい)
狩野派と浮世絵を折衷した画風の作品が多い浮世絵師で、1869年(明治2)に官を誹謗
(ひぼう)した風刺画のために投獄されています。著書に『暁斎画談』があります。暁斎は酒好きで、この絵も大酒を飲んで一気に描き上げたと言い伝えられています。昭和一七年の火災で焼失しましたが、絵葉書をもとに最新のデジタル技術で復元されました。