吉備の大臣と九生(くしょう)大王 『とがくし山』江戸初期紅3-5

大島由起夫「『戸隠絵巻』考」、及び、島津久基「紅葉狩(戸隠伝説)」を参照して口語訳
江戸時代初期と思われる『とがくし絵巻』は戸隠の旧別当家の久山家に伝わっていたものです。主人公の名前は維茂とは異なっていますが、これも謡曲の『紅葉狩』を変形・物語化して絵巻に仕立てたものです。

それ、天下泰平に治まるには、仏法をもって政道の中心となし、五常を守り、信心を深くすれば、どうして国民が平穏無事でないことがあろうか。

ここに神武天皇以来、四十四代に当たらせ給う(みかど)を、元正天皇(げんしょうてんのう)と申し上げる。この帝が中国の古代、三皇五帝の跡を慕い、信心をもっぱらにし、賢臣の(いさめ)を用い、佞臣(ねいしん)を退け、善に近づき悪を離れ給うたからであろうか、国は豊かに治まり、民は安穏(あんのん)に暮らしていた。このため国土の人民、波をへだてた遠国(えんごく)に至る迄、帝に靡かない草木も無かったのである。

されば、治まる御代の(しるし)であろうか、美濃の国から不思議な事を奏聞(そうもん)してきた。本栖(もとす)(ごほり)に泉が湧き出て、飲む人は、白髪が変じて黒くなり、老いた者は若やぎ、若い者は何時になっても年をとらないとのことである。

このことを土地の者が都に申し上げたところ、殿上人(てんじょうびと)も奇異の思いをなし、急ぎ帝に申し上げると、「このような不思議な事こそいままではなかった。急いで勅使を(つか)わし、見て参れ」とのご命令。

すぐに勅使を遣わし、事の様子を御覧になると、まこと世にもまれな不思議な有様であった。辺りの里人を近づけて、勅使が事の仔細(しさい)を尋ねると、里人が答えて申し上げることには、

「さようでございます。この泉が湧き出ることは、昔もそうだったのか、またこの頃湧き出たのか、それは存知ませんが、私は年寄りの父を持って居ります。その父を養うために、山に入っては薪を切り、これを生活の糧にして居りましたが、ある時、山道の疲れにこの滝川のほとりに休み、なんとなくこの水を手に汲んで飲みましたところ、疲れもやみ、心も若やぎました。急ぎ家に運んで、父にこれを与えたところ、年取った父もこの水を飲んでから、何時の間にか白髪も変じて黒くなり、足も軽く、夜の寝醒めもおっくうがらず、朝寝であったのも起き易くなり、疲れることもなくなりました。それでこの水を朝夕に汲んで飲んでいましたら、何時しか自分の身も年寄る事がありません。こういう訳で、飲み始めた人々も、この不思議を知ったのです」。

勅使も不思議に思って、この滝壷に立ち寄り、よくよく泉の出る所を見極めて、すぐにそのまま都に帰り、この由をありのままに奏聞したのだった。帝も大いに感心なさり、すぐに年号を養老(ようろう)と改められた。まことに、聖代の御代には、このような瑞相(ずいそう)がある事は、(かん)(ちょう)にもその例が多い。帝もいよいよ(まつりこと)を怠ることなく、君も臣も安穏(あんのん)に過されたのだった。

こうして年月が過ぎていくうちに、また人々の(わずら)うことが出てきた。

というのは、東山道(とうさんどう)の信濃の国戸隠山に不思議な変化(へんげ)の物が住んでいて、日が暮れれば往き来の人は稀であった。初めのうちはそんなものであったが、後には夜となく昼となく、鬼神が姿を現わし、麓へ出てきては、往き来の人を苦しめる事、甚だしいものである。これにともない関東からの貢物も順調ではない。都から(あつま)へ下る事もできない。近くの土地の人々はこの鬼神に襲われ、親を殺されて子が残って歎く者もあり、あるいは夫を失って妻の歎く者もあり、兄を殺され弟が残されて憂うる者もある。どの家々にも泣き叫ぶ声は、叫喚(きょうかん)地獄(じごく)の苦しみも、これには(まさ)るまいと思われた。人々はむなしく田畑も耕さず、昼でも夜でも家の戸を閉じて籠もって居る事、まことに天下の(わずら)いであるといって、信濃の国の人々が皆して集って相談したことには、

「昔もこのような事があった。このまゝにしておけば、土地の人々はことごとく鬼神に滅ぼされてしまう。たまたま我々のような者が残って留まっていても、このように戸を閉じて家に籠もっていては、田を耕す事もできない。そうなれば将来も不安である。こうなったからにはこの事を都へ訴え、なんとか信濃の国が平安であるようにしようではないか」。

「それはもつともだ」ということで、我こそと思う者、数十人が連れだって、都を指して上ったのである。

かくて都に着いたので、事の仔細を宮中に奏聞したところ、帝はたいそう驚かれて、その十人の者を召され、尋ねさせられた。事の始終を詳しく申し上げると、

帝はそれをお聞きになって、殿上人を近づけ、「どうしたらよかろう」と仰せになる。中にも堀川の内大臣が進み出でて申し上げるには、

「昔もこうした例はあります。天智天皇の御代にも、藤原の千方(ちかた)と云う逆臣も、鬼をことごとく従え、召し使いましたけれども、宣旨を頂いて攻めましたので、たちまち滅びた(ためし)があります。今でもそうです。急ぎ武士に命じられて退治すれば、何の問題がありましょうか」。

帝は、もっともと思われて、「そうであるならば、誰に命じたらよいであろうか」と仰せになる。

内大臣は「吉備(きび)大臣(おとど)という者は、文武二道の人ですから、これに命じられるのがよろしいでしょう」と申し上げる。

帝は、「それならば大臣(おとど)を召しだせ」と仰せになるので、急ぎ吉備の大臣に勅使を下された。

大臣は驚き、すぐに參内なされた。帝が仰せになるには、「信濃の国戸隠山に鬼神が住んで、国中の人々を悩まし、往き来の人を殺す事は怪しからんことである。お前は急いで信濃の国に下って退治せよ」との勅諚(ちょくじょう)である。

大臣は勅諚を(うけたまわ)り、「私のような者が出かけていっても、退治することは難しいでしょう。これは天下に名を得た人にご命令下さい」と申し上げる。しかし、()(ぎょう)・殿上人がいわれるには、

「お前の言うことももっともであるが、人の多いその中で、お前が選ばれたことこそ面目(めんぼく)である。その上このような帝のお言葉は綸言(りんげん)汗の如くであるから、少しも時を移さず、出かけていかねばならぬ」。

大臣はこれをお聞きして、

「重ねて申しあげれば勅諚に背くもので、命を惜しむに似ています。そういうことならば、出かけましょう」

といって、帝の前を引き下がって宿所に帰り、身内の郎党に蘇我(そが)河麿(かわまる)()貞雄(さだお)という大剛(たいごう)の者がいたが、彼等二人を御前に召して、

「なんとお前達、よく聞け。この頃、信濃の国戸隠山に鬼神が住んで、人々を悩まし往き来の人が困窮していることを国の者が申し出た。そのような時に、我にその鬼神を退治せよとの勅諚が下ったのは、家の面目、末代までの(ほま)れである。明日にも早く信濃の国へ下ることになる。(なんじ)()二人、供をせよ」という。

二人の者は承り、

「これはたいそうな大事だ。人も多いその中に、只今ご主人にこの勅諚を下される事、家の面目は何事もこれにしくはない。たとえ神通力をもった鬼神であっても、目にさえ見えれば、どうして滅ばさないでおかれようか。その上、勅諚であるからいよいよ頼もしく思われる」といって喜ぶ事、限り無かった。

大臣(おとど)がおっしゃるには、

「お前達がいうように、勅諚を持って行くならば、少しも心配することはない。とはいいながら、神仏を頼むべきである。我は、この年月、長谷の観音を信じてきた。参籠したくは思うけれども、大事の宣旨なれば早く出かけよう」といって、長谷の観音へは使者を送り、自身は、養老二年九月中旬に、河麿(かわまる)貞雄(さだを)を大将として、その勢五十余騎を引き連れ、信濃の国の三人の者に案内をさせ、都を立ち出で大津の浦に着かれたのだった。

瀬田(せた)の橋を渡り、野路(のじ)篠原(しのはら)を過ぎ、夜を日に継いで急ぎ、昔から有名な信濃の国に着いた。三人の者共は、大臣一行を、とある民家に休ませ、先ず旅の休息をとっていただく。

大臣は、「夜が明けたならばあの戸隠山へ分け入ろう」といって、かの三人の者を呼んで、山の様子を尋ねられた。三人の者は、

「さようでございます。あの山というのは、越中の立山、そして加賀の白山へと続きますが、険しい事はなかなかのもので、鳥でなくては通いようもありません。老木が茂っていて月や日の光さえ明らかではなく、木の葉が積っていて道も無いので、たまたま往き来する人も帰り道が分かりません。目を(さえぎ)るものは空を飛ぶ翼、耳に聞こえるものは峯の嵐と谷の水音、これ等の外は音のするものもありません」という。

大臣はこれを聞き、「いずれにせよ、夜が明けたらあの山へ分け入り、山の様子を見よう。そして、鬼神が我等を騙そうと出てきたときに、こちらの思い通りに退治しよう」とおっしゃって、この夜はそこに泊まられた。

そうこうするうちに、山の端が白み、横雲が棚引き、日の光もしだいに差してきたので、大臣は、「人が多くては思うようにならない」といって、「河麿(かわまる)貞雄(さだを)、二人だけで供をしろ。残りの者共は皆麓にいろ。人が多く行けば鬼神が怖れて出てこないぞ。その用意をしろ」と命じる。

大臣は真新しく照り輝く緋縅(ひおどし)(よろい)、赤地の錦の直垂(ひたたれ)を着け、二尺八寸の太刀を()き、上に薄衣(うすぎぬ)を一つ打ちかけて、先に進んで出ていく。蘇我の河麿も萌葱(もえぎ)絲絨(いとおどし)の鎧に、褐色(かちん)直垂(ひたたれ)を着し、紀の貞雄は()桜縅(ざくらおどし)の鎧を着て、どちらも薄衣を上にかぶって、戸隠山へ分け入った。

残りの者共は皆麓の野辺(のべ)に留り、「何ともあれ、討ち洩しなさったならば、ここで捕え(とど)めよう」と皆、牙を噛んで待ちうけることにした。

こうして主従三人は、足に任せて山に分け入った。

誠に聞くにもまして凄まじく、頃は九月下旬の折なので、峰の木枯吹き(しを)り、木の葉が積って道も無い。山路に雨は無いが霧は深く、日輪の光も稀なので、時刻も分からない。

このように気持ちの悪い険しい所を過ぎて、少しおだやかな所に出て、とある木陰に三人は立寄って息をついた。

大臣は、

「これ程まで分け入り、早くも夕日は西に移ったが、眼に見えるものはなにもない。てっきりこれは宣旨に(おそ)れたか、又は観音の仏力(ぶつりき)で、吾等が威勢に恐れたか、不思議なことだ」とおっしゃる。

二人の者はこれを聞いて、

「まこと、常は里までも下りて人の命を奪う奴めが、このような所まで我等がやって来たのに害を為さぬのは、てっきり宣旨に畏れたか、ご主人の威勢に恐れたからであろう。いずれにせよ、この山に何年いようとも、鬼神の姿を見ずには山を下りられようか」と申しあげた。

大臣はこれを聞かれて、

「よくぞ言った、俺もそれは心得ている。この山で暮すことになっても、鬼神の姿を見ずには二度と故郷へは帰るまい」といって、腰につけた乾飯(かれいい)など取り出して、飢をしのいでいらっしゃった。

そうしていると、峰の方に人の声が聞えたので、大臣は不思議に思って、「これこそ例の鬼神であろう。行ってみよう」とおっしゃるので、また遠くまで分け入り登っていくと、美しい女房が二人、涙を流していた。

大臣が「これこそかの変化(へんけ)の者であろう。我々を騙そうと、女となって出てきたのだ。あやつ等を連れて来い」とおっしゃるので、「承知しました」と申し上げて、河麿(かわまる)がするすると立ち寄ると、女はたいそう恥かしげに木陰へ隠れた。

河麿が「お前達は何者だ。なぜこの人も稀な山に住んでいるのか、怪しいぞ」というと、女房は、「私たちはこの山に住む者ではありません。麓の者です」と答える。河麿はこれを聞きて、「それならいいのだが」といって、急ぎ帰って大臣の所に行く。

大臣は御覧になって、「おいおい、お前達よく聞け。この山に鬼神の住むところがあると聞いている。何処(どこ)であるか教えよ」とおっしゃる。

女房は涙を流して、

「さようでございます、私どもは存じません。この峯の向こうに気高い上﨟(じょうろう)が大勢で酒盛していらっしゃいます。この人々こそよくよく知っていらっしゃるでしょう。私たちは鬼神の住んでいる所へは入ったことがありません。酒盛りの所へ行って尋ねてください」という。

大臣はともかくもこの女房を連れて、また峯を遥々(はるばる)と越えて行くと、思った通り気高い女房が六、七人、幕を打ち廻し屏風を立てて、酒宴の最中と思われた。大臣が立寄ると、その女房達は恥かしげな様子をして、ここの木の陰、あちらの岩の下へ隠れる。

大臣(おとど)が、

「どうされましたか、皆様方。私は怪しい者ではありません。どうしてお隠れになりますか。早く出て来て下さい。」とおっしゃれば、女房達は恥かしそうに出てきて、

「御姿をお見受けしますに都の人と思われます。私たちはこの山に住む者ではありませんが、訳あってこのような深山(みやま)の奥に来て、誰にも分からないだろうと心を許して遊んでいましたのに、みなさまのような人に見られたのは恥ずかしいことです」と顔を伏せる。

大臣は御覧になって、

「どうして恥じられることがありましょうか。一樹の陰の宿りにも、他生(たしょう)の縁と聞いております。このような時に、道端の草葉の露のようなはかない言葉を交すのも、この世ならぬ前世からの縁です。我等は都の者で(あずま)の方に下ったのですが、道に迷い、この山へ分け入ってしまいました。道を教へて下さい」と尋ねる。

女房これを聞き、

「都の人と聞けば懐かしく思われます。ならばこちらへおいで下さい。道をお教えしましょう。とはいうものの、一河の流を汲む酒を、どうしてお見捨てになっていいものでしょうか」と、御袖に縋って酒を勧める。

やはり情のない岩木ならぬ身であるので、大臣たちは心弱くも立ち寄って、林間に酒を暖め紅葉を()く風情もこのようなものかと思われ、立ち舞う足下に気持ちも迷い、はやくも心を打ち解けなさる。

大臣が、

「どうか皆様お聞き下さい。本当でしょうか、この山に鬼が住むと聞いていますが。どこにいるか教えて下さい」とおっしゃれば、女房達はこれを聞いて、

「左様で御座います。この山には九生(くしょう)大王(だいおう)と申しまして、その身の(たけ)は一丈余りの鬼がおります。召し使う眷族(けんぞく)に至る迄、みんな相当の者ばかりです。この頃は陸奥(みちのく)の国へ行っております。二、三日は帰らないでしょうから、私たちは留守の間に出て、こうして心を慰めているのです」といって、打ち解け顔にて酒を強いるので、大臣を初め河麿・貞雄、杯を差し受け、差し受け飲むうちに、前後不覚になってしまったようだった。

大臣たちが側にある岩を枕として、少しまどろんでいると、女房共はこれを見て、「してやったり」と喜び、今迄は女と見えていたのが皆凄じい鬼となり、「急ぎ九生大王にお伝えしよう」といって、鬼の(いはや)へ戻っていった。

いたましいことに、三人の者たち、まさに危うく見えたのだが、(かたじけな)くも長谷の観音様は、大臣の枕許(まくらもと)に現れ給い、

「どうしたことだ、大臣(おとど)、このような宣旨を承ったのに、大事の敵に気付かず、かような不覚をとろうとするのか。早く起きろ」とおっしゃって、かき消すように姿を消された。

大臣は夢が醒め、かつぱと起きて御覧になると、辺りにいた女は一人もいない。家来の二人の者も同じ枕に臥している。大臣は声を張り上げ、二人の者を起せば、河麿・貞雄は夢から醒め、かつぱと起き上り、四方をきっと見廻して、「これはどうしたことだ」と言う。大臣は「不思議なことだ。只今の女は皆この山の鬼だぞ。用意しろ」とおっしゃって、上に着ている薄衣(うすきぬ)を脱いで捨て、太刀を抜き持って、三人一ヶ所に立ち集り、大木が一本あったのを楯にして、今や今や、鬼神の現れるのを待ち受ける、その心のうちこそ頼もしいものであった。

そうこうしているうちにも、例の女たちは皆鬼の形を現して(いはや)に帰り、九生大王の前に出て、

「このように騙したので、大臣たちは前後も知らずに寐ています。急ぎお出になられて、早く餌食(えじき)になさいませ。大王様、如何(いかが)でしょうか」といえば、

大王たいそう喜び、「よくぞ言った」といって、すぐに(いはや)を立ち出で、眷族共(けんぞくども)を引き連れて、大臣(おとど)殿が酒によって寐ている所に来てみれば、大臣たちはそこにいなかった。

「これはどうしたことだ」と慌て騒ぎ、ここかしこと探せば、三人の人々これを御覧になって、「おう、鬼神が出たぞ、一人も打ち漏らすな」といって、木の陰から現れ出でて大音声をあげていわれる。

「おいこら鬼神、しかと聞け。普天(ふてん)(した)卒土(そっと)(うち)王土(おうど)(あら)ずと云う事無し。それに何だ、汝、王地を犯すのみならず、往き来の人を悩ます、その天罰は(のが)れまい」といって打ちかかれば、鬼共これを見て、

「何、王土を犯すだと、昔はそうだったかもしれないが今はちがう。手並の程を見せてやろう」といって、三人の人々を中に取り囲んで攻めるが、もとより剛なる人々であって、もみあって闘う。

鬼神は通力を得たもので、悪風を吹かせ火を飛ばせ、谷を()り峯に登り、岩を崩し古木を倒して闘うので、大臣ら三人もかないようがなかった。しかし、帝の威光のあり難いことには、どこからともなく、十七、八の天童が一人飛んで来て、(くろがね)の楯を持って、三人の者の前に立って防いでくれる。大臣はこれを御覧になって、「忝いことだ。さては未だ神仏の擁護も残っているぞ」といって、面もふらず戦うので、さしも飛行自在の鬼共も、たちまちに通力を失なって、皆ことごとく討たれてしまった。

九生大王はこれを見て大いに腹を立て、「憎き奴らだ。さあ、俺の手並の程を見せてやろう」といって、小高い岩の上に跳び上り、大臣を睨んで立ったのだが、それは身の毛もよだつばかりであった。

三人の人々がこれを見て、隙間(すきま)も無く斬ってかかれば、鬼神は(かな)わないと思ったのであろうか、大臣目指して、宙を飛んでかかったが、そのまま、むず、と組み合った。あれほどまでも険しい山の中を、上になり下になって転ぶのを、家来の二人はこれを見て、休むことなく斬りに切れば、鬼神の少し弱って見えたのを、そのまま押えて首を掻き落した。と、この首は虚空に飛び上り、口から火焔を吹き出し、三人に吐き懸けたのである。

どうにもこれには防ぎようもなかった。鎧の袖を頭にかぶり、木陰を求めてあちこち逃げ回っていると、どこから来たのであろうか、鷲・熊鷹の二つが飛んで来て、その舞い上る鬼の首をつづけざまに蹴りつけ、数千丈の深い谷の底へ蹴落せば、首は微塵に砕けてなくなってしまった。

三人の人々はこれを見て、いよいよ忝いことだと手を合せ伏し拝んだ。

「今はもう、目的の鬼は滅ぼした。心掛かりはない」といって、木陰に立ち寄って少しお休みになっていたが、まもなく日も入ったので、もとより山路に月がなくては道も見えない。「それでは今宵(こよい)はこの山で夜を明そう」といって、木の葉を集めて焚火として、長い夜寒をお明しになる。

麓に残っていた大勢の者共は、「どうなさったであろうか、心配だ。さあ、お探ししよう」といって、道も見えない険しい山を、あちこち尋ねまわるその心がけは頼もしいものであった。

こうしてその夜も明けたので、三人の人々は、斬り殺した鬼の首を、二つ持って帰ろうとするが、貞雄が、「今はもう目的の鬼は滅ぼしたので、気にかかる事もない。いっそのことあの鬼の住処(すみか)を見て、故郷の土産話にしよう」と言うので、大臣もそれもそうだと思い、また奥山に分け入って、あちこちと尋ねたけれども、これこそ鬼の住処と思う所もない。

なお谷を指して下りて行くと、そこに大きなる岩穴(いはあな)があった。立ち寄って見れば、口には石を(たた)んで門とし、奥はどうなっているとも見えない、数千丈の深い谷である。藤の蔓を伝って出入りしたと思われ、(ふじ)(かずら)がたくさんある。入ってみることもないので「さあ帰ろう」とおっしゃれば、二人の人々も「もつとも」といって立ち帰ったのだった。

谷に下り峯に登るうちに、帰るべき道が分からなくなった。あちこちと迷うけれども、行く先は詰っていて岩石だけである。「どうしよう」と天を仰ぐが、大臣が仰るには、「知らない山路に迷う時は、谷に従って出れば必ず里があると云う。さあ、谷の水をたどって行こう」。そこで流をたどって山を出ようとした。

こうしているところへ、麓から尋ね入った大勢の者が、あちこちと尋ねかね、声を上げて呼ばわった。

「この(あたり)に吉備の大臣はいらっしゃいますか。蘇我の河麿・紀の貞雄はおりませんか」と声々に呼ばわる声が微かに谷に聞えたのだった。大臣は不思議に思われ、耳を澄ましてお聴きになると、大勢の声である。たしかにこれは麓にいた者共が、探しに来たのだと思い、すぐに谷から答えれば、大勢の者はこの声を聞いて、谷を指して()りてきた。見れば三人の人々が鬼の首を持っていらっしゃる。喜び勇んでそのままお連れし、麓に出たのだった。

信濃の国の里人は、このことを聞くやいなや、「それにしても有り難いことだ」といって、みんなして出て大臣を拝んだ。大臣はそれからすぐに、「先ず都へ人を上らせよう」といって、御内(みうち)の者の一人を呼び寄せ、「よいか、お前は都へ上り、事の詳しい事情を申し上げよ。私は明日にも上ろう」とおっしゃり、自身はある民家にお入りになり、しばらくお休みになるのだが、大臣の御手柄の程こそ素晴らしいものであった。こうして御使は大臣の命に従い、都を指して上ったのだった。

一方、都では、大臣が信濃の国へ下られた日から、毎日人を出して、大津・粟津(あわつ)・松本の(へん)(まで)御迎えしていたが、大臣の御使も、程無く瀬田の橋に着いたので、その御迎えに対面した。御使がありの侭に語ったので、御迎えの人々は都へ立ち帰って、このことをしかじかと申し上げる。帝もお聞きになられ、御喜びは限りようもなかった。

「では、迎えを(いだ)せ」とおっしゃるので、殿上人は目出度い事ことだと、我もわれもと迎えに出られる。また大臣の御台所の御方よりも、思い思いにお出になる。都から大津、松本、粟津、瀬田、野路の篠原まで、馬、車、徒歩(かち)、裸足の人々は引きも切らない。都の人々はこれを聞き、「さあ、末代の物語に見物しよう」といって見物に出たのだが、逢坂(おうさか)(あたり)桟敷(さじき)をしつらえそれが並んでいる。

一方、大臣は「少しでも早く上ろう」と仰って、鬼の首を持たせて、次の日、信濃の国をお出になれば、国中の人々は、「それにしても有り難いことだ」といって、皆して大臣をお送りする。まことに華々(はなばな)しいご様子であった。

かくして大臣は近江の国、安川で御迎の人にお会いなされ、みんな馬から下りて挨拶があった。そして信濃の国の人々は、大臣に御暇を申しあげて本国に帰り、喜び合ったことはこの上ないことであった。

大臣はたいそうな様子で都にお入りになり、道々の御迎えにはそれぞれ挨拶があって宿所に入ると、「そのまま參内(さんだい)せよ」との命令である。大臣は河麿・貞雄に二つの鬼の首を持たせ、帝へ參内なさると、内よりの宜旨には、「この度の忠孝は、まったくもってたとえようもない。近くに参って戸隠山の物語などせよ」とのことなので、「恐れ多いことです」といって御簾(みす)の近くに寄って、一部始終の事、女房に酒を無理強いされた事、鬼の首が宙に飛び回った事、住処(すみか)を尋ねた事、道に迷った事、くわしく申し上げれば、帝も臣下の者も各々驚き感心していらっしゃる。

「まことに並ぶもののない手柄である」といって、ただちに、大臣には信濃国を下され、その上御剣(ごけん)、色々の巻物など取り添えて賜った。また河麿・貞雄の二人を、かたじけなくも少将になされる。大臣は「あり難いことだ」と、帝の前を退き宿所にお帰りになったのである。

大臣は、「この度の忠孝はひとえに長谷の観音のお守りがあってのことではなかろうか。さっそく参籠しよう」とおっしゃって、二人の少将を引き連れて、観音に参詣し、三十三度の礼拝を奉り、それから堂塔を一宇も残らず建立した。八十八間の廻廊、四十四間の廊下、仏前の道具をすべて金銀で磨き立て調え、これらは末世の今になってもそのままで、世にも珍しいことである。

さて大臣は急いで戻ると、二人の少将を近付け、「お前達のこの度の忠孝は数える暇さえない。その恩賞に」といって、信濃の国の総政所(そうまんどころ)に任命された。二人の者は「かたじけないことです」といって御前を下がって、信濃の国に下った。国中の人々はこれを聞いて、「この国が無事穏やかであるのも、ひとえにこの人々のお陰である」といって、色々の果物、捧げ物を持ち、少将殿の下に参上した。二人の少将もお出になり、皆々に対面しておっしゃるには、

「この度この国の鬼神を従えた事、これも一つは帝のお陰、または神仏の力である。まったくもって人間の力だけでできることではない。けれども勅諚を頂いたからであろうか、思いどおりに鬼神は滅びたことだ。方々も、勅諚とあるならば、かならず畏れはばかりなされよ。こうした変化の物までも勅諚の前には滅びるものであるぞ」といろいろの物語をすれば、国の人々はそれを聞き、「まことに畏れても畏るべきは帝のお陰である」と、皆々御暇を賜り、自分の家に帰ったのだった。

さてその(のち)二人の少将は、思いのままに家を構えて、栄華に栄えた。こうしたことで大臣は信濃の国へ下りても益無しということで、都に住まわれたが、まことに大層なことであった。

帝はその二つの鬼の首を御覧になって、いかがしようかと思われたが、「このような物は末代迄も語り伝えさせよう」ということで、七條河原に獄門に懸けて曝されたのだった。「誰も彼も帝を敬まい申し上げよ」と、見聞く人々も勅諚を畏れ申し上げれば、いよいよ帝の威勢目出度く、靡かぬ処もないのであった。

平維茂と鬼女紅葉  『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之伝全』明治十九年3-6

国会図書館蔵本より要約して口語訳。謡曲『紅葉狩』は浄瑠璃となり草双紙となり、さまざまに脚色されていきますが、これに滝沢(たきざわ)()(きん)の『傾城(けいせい)水滸伝(すいこでん)』を加味して明治十九年に出版されたのが『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之伝』です。随分と人気のあった物語のようで明治三十六年にも再刊されています。現在伝わる鬼女紅葉伝説はこれに現代の私たちの思いを反映させた新しい伝承といっていいでしょう。

 

   序

積悪(せきあく)の家には余殃(よわう)あり」とは儒教の(いまし)めであり、「善悪の応報は影の形にうがごとし」とは仏教の教えである。どうして悪事を盛んにって長く無事でいられようか。我が国の天智天皇の御代の逆賊藤原千方(ふじわらちかた)以来、大江山の酒顛(しゅてん)童子(どうじ)鈴鹿山(すずかやま)鈴鹿(すずか)御前(ごぜん)宇治(うじ)(ばし)の鬼女・(はし)(ひめ)などどれも怪しげな術を用いて世を悩ませたことは人々の知る所であるが、信濃国戸隠山に籠った鬼女紅葉(もみじ)というものも、またこれと同じように()しき術を行って人々を悩し、その悪事の数々は隠しようもなく、ついに処罰を受けたのである。世間に紅葉についての伝説はあれこれと伝えられていて、より確かな根拠もないけれども、現在、信濃国で実際にその出来事を伝える正しい説を編集し、出版して幼い者に善を行うことを教える役に立てたい。

明治十九年六月     纂輯(さんしゅう)(しゃ)(しるす)


戸隠山鬼女紅葉退治之伝

纂輯人 斉藤一柏

同   関 依川

清和天皇の御代、(ばん)善男(よしを)という者が陰謀を企だて、都の(おう)天門(てんもん)に放火して伊豆へ流されたことがあった。その後、大赦(たいしゃ)があってその子孫の者が延喜(えんぎ)の御代の末に奥州会津に流れていって名を(ばん)笹丸(さゝまる)といい、妻を(きく)()という。子がない二人はさまざまな神仏に授かるように祈ったが効果もなく、人に勧められ第六天の魔王に祈ったところ、承平(しょうへい)七年の秋に女の子を授かり呉葉(くれは)と名づけた。

呉葉が利発なことは大人も及ばず、読み書き、算用、琴三味線、和歌の道までも優れて育ち、十五、六歳になる頃にはその美しさに惹かれて言い寄る者も多く、会津の里に近い村の河瀨(かわせ)源右(げん)衛門(えもん)の一子(げん)(きち)は呉葉の美貌に心を迷わせ、恋文を送ったがいつも突き返されていた。親にも言えぬ源吉は胸を焦がしてうつと日を送るうちに身体は痩せ衰え、病の床につくようになれば、両親は驚き、薬だ、針だ、灸だと騒ぎ、神社仏閣にも祈ったが効果はない。

この源右衛門の家に代々仕える勝丞(かつじよう)千代平(ちよへい)は、或る日、病に伏す源吉を訪ね、病気の原因が(こい)(わずら)いだと確かめると、親の源右衛門夫婦に報告。事情を知った夫婦は二人に仲立ちを頼み、当座の用に百両を渡す。

翌朝、二人は笹丸方へ行き、近くの村の金持ちの家といって呉葉の嫁入り話を持ちかけるのだが、呉葉の美貌と才知を頼りに都に上り、身分ある者へ嫁がせたいと思っていた親の笹丸は二人の申し入れをあっさりと断わる。断られた千代平、一昨年笹丸に貸した十五両の返済を申し入れ、出来なければ呉葉を主家源右衛門の家に奉公に出すようにと迫る。迫られた笹丸は、貧苦に迫り独り娘を取られたと世上に評判立つならば生きて甲斐なし、とはいえ返す金はなし、申し訳に切腹仕る、と騒ぎ出す始末。それを妻の菊世と娘の呉葉が止め、勝丞と千代平はこの騒ぎにあきれ果てて、いったんは引き下がるのであった。

さて、笹丸は勝丞と千代平が帰ったあと、声をひそめて妻子に向かい、「呉葉をとられては都に出て高貴な者に嫁がせる夢はついえる。こうなったらこの家を立ち退いて都を指して逃げるしかない」と打ち明ける。これを聞いた呉葉は「私を守る神様に頼みましょう」といって庭に出ると、天を仰いで何か秘文を唱えた。と、不思議なことに呉葉そっくりの娘が現れ「これを身代りに嫁入らせ結納(ゆいのう)(きん)を受け取り、それを持って都へ上りましょう」と呉葉。「第六天の申し子だからであろうか、不思議なことだ」と父の笹丸。こうして親子三人で密議を凝らすのであった。

一方、勝丞と千代平は、笹丸の腹切り騒ぎに驚いたが、返す金が出来る訳はない、金の代りに娘を受け取って源右衛門殿へ茶の間奉公させようと、翌日出かけていけば、案に相違して腹切り騒ぎを謝る笹丸。(くるわ)から借りたお金さへなんとかなれば「呉葉が身の上は御両人におまかせいたします」と菊世。当人の呉葉も承知というので、笹丸親子の陰謀を知らない千代平は、「では結納酒代として金百両をお渡しいたします。これで廓の借財を済していただき、今より同道して呉葉さんには源吉殿の御介抱を・・・」と、身代わりの呉葉を駕籠に乗せて、源右衛門宅を指して急ぎ行く。見送った笹丸夫婦と呉葉は、日暮れを待つと月の曇りを幸いに都を指して逃げて行った。天暦(てんれき)六年五月半ばのことである。

呉葉を迎えて源吉の病はすぐに回復。源右衛門夫婦以下、家中の者は呉葉を生き神様と敬っていたが、ある日、源吉が見ている前で、「(くも)の糸を風が払う前に私が払ってあげましょう」と、(ほうき)を持って庭に下り立つ呉葉。と、払った糸が布一反ほどの雲となり、呉葉はこれに打ち乗り空へと上っていく。一同大騒ぎして、千代平が会津へ駆けつけてみれば笹丸の家は戸を閉ざしていた。

都に上った笹丸は名を伍輔(ごすけ)と、菊世は花田(はなだ)、呉葉は紅葉(もみじ)改め、宿の主人の好意で四條通りの町はずれに小店(こだな)を開き、髪道具やはき物を商い、紅葉は弟子を集めて琴の指南。頃は天暦(てんりゃく)七年の水無月(みなづき)の末、四條河原の夜涼みに出た(みなもと)経基公(つねもとこう)御台所(みだいどころ)は紅葉の弾く琴の音に心をひかれ、腰元として館に呼び寄せる。人知れずあやしき術を具えていた紅葉は御台所の心を読み、すぐに(つぼね)に住み下女をも召し使う身となったのであった。

紅葉の才気と琴の技はいつしかに経基公(つねもとこう)の御耳に入り、ある日の御宴(ぎよえん)に琴一曲を調べることとなる。心に例の第六天を念じつゝ琴を弾じれば、経基公は紅葉の美しさに心を動かす。これぞ紅葉が邪術(じやじゆつ)をもって経基公の御心をあやつりはじめた始めであった。

かくて経基公の寵愛を受けることとなった紅葉はいつしか御種を宿し、「多くの侍にかしずかれ、父の伍輔も武士となり、身をも家をも起したいものだ」と悪念を起す。それには目障(めざわ)りな御台所、世になきものに、と怪しき術で御台所の調伏(ちょうぶく)にかかれば、病に伏した御台所、夜の(うし)(みつ)つ時になれば鬼が現れて苦しめるという。

経基公の側用人三谷(みたに)隼人(はやと)の妻の百手(もゝで)によれば、紅葉は御台所の看病に付きっきり。が、一方、局では同じ紅葉が怪しげに祈る姿が見られる。この一身両体を怪しんだ側用人の三谷隼人は妻の弟の浅田伝蔵(あさだでんぞう)を比叡の山に送り、大行(だいぎょう)(まん)の律師から加持符(かじふ)をいただく。その加持符を御台所を看病する紅葉の(えり)に付けようとすると不思議なことに紅葉の姿は消え失せる。一方、浅田伝蔵が局で祈る紅葉を捕らえてみればこれこそ真身の紅葉。かくて、紅葉の陰謀露見、つまりは寵愛した自分の過ちと知った経基公は、「我が過を隠さんため信濃国の戸隠の山の深みに追ひやれ」と親子を追放したのである。天暦(てんれき)十年九月の末のことと伝わる。

戸隠の山奥に捨てられた紅葉は、経基の子を身ごもったために御台所に罪を着せられて流罪、伍輔と花田は譜代(ふだい)の家来、腹に宿った子が生まれればいずれは都に帰る身、このように土地の者を欺き、秘文を唱えて加持祈祷、病を治すので生き神様と評判され、慕う者が岩屋に家を造れば腹の子はやすやすと出産、珠を欺く男子であったので父経基の経の字を取りて経若丸(つねわかまる)と名付けた。

一方、悪事に傾く心の紅葉は夜な夜な男姿になると離れた土地の富家を襲って金銀を奪っていた。これを知ったあたりの強盗で、鬼武(おにたけ)熊武(くまたけ)鷺王(さぎおう)伊賀瀬(いがぜ)と名乗る四人の荒くれ者、平の将門(まさかど)の家来の末を名乗り、紅葉の力を試しに乗り込むが氷の玉、火の玉を降らし、()(おうぎ)用いて水を出す紅葉の幻術の前にあっさりと手下となるしかない。四人は都の経基から送られた経若丸の家来といって里人をだまし続け、さらには鬼のおまん(、、、)という七十人力の二十三、四の女も仲間に加わることとなった

さて、父の伍輔は紅葉の悪行を憂いて諌めはするが、魔王を祈ってもうけた紅葉、悪縁悪果を結ぶとはこのことで悪行の止むことはなく、伍輔はついに病に倒れてこの世を辞すこととなる。かくて鬼武らの四人も遠い村里から若い女をさらって妻にとなし酒色にふければ、手下もこれをまねて(そむ)く者を斬り殺す。紅葉はこの生血を取らせて酒となし肉をあぶりて喰らうのであったが、いつしか戸隠の岩屋の紅葉は鬼神ぞと世間に洩れる噂の数々、国守に知られることもあろうかと槍や長刀(なぎなた)、太刀などを集めることになるが、まさしく国守の知るところとなる。さらに冷泉帝(れいぜいてい)もこれを聞こし召して(たいら)朝臣(あそん)維茂(これもち)(こう)信濃(しなのの)(かみ)に任じ、山賊紅葉退治が発せられたのは安和(あんわ)二年の七月のことであった。

迎え撃つ鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬らは、、天慶(てんけい)三年に我等が主人将門(まさかど)(わう)を討ち亡ぼし、先祖の長狭(ながざ)鷺沼(さぎぬま)をも討った(たいら)定盛(さだもり)繁盛(しげもり)兄弟、寄せ来る維茂はその繁盛の嫡男(ちゃくなん)、これこそ仇討(あだう)のよき機会と勇み立つ。紅葉も維茂めが首とって信濃一国を奪い取らんと、守りを固めるのであった。この騒動を見た紅葉の母の花田は、経若に自分は祖母だと告げると、「死んで恥をさらすな」と言い残して自害をしてしまう。

さて、維茂(これもち)は紅葉退治の勅命を蒙むり、譜代の功臣金剛(こんごう)兵衛(ひやうえ)政景(まさかげ)太郎(たろう)政秀(まさひで)成田(なりた)()衛門(えもん)長国(ながくに)真菰(まこも)次郎(じろう)河野(こうの)三郎(さぶろう)勝永(かつなが)等総勢二百五十余騎を引き連れ信濃国の出浦(でうら)(塩田)の里に到着。まずは河野三郎と真菰次郎に兵卒百五十余騎を授けて今の水内郡(みのちごほり)笹平村(ささだいらむら)に布陣させた。

曲り曲がれる山路を登り裾花川にかゝる藤橋を敵の難所と河野と真菰の兵は賊徒を攻めつけるが、火の雨が降り、足元深かく水が押し寄せて敗北。紅葉の幻術である。これを防ぐには(しょく)の孔明が南蛮の幻術を防いだように武器に不浄のものを塗るとよいということで、藤橋での勝利の宴会をする紅葉らを本陣近くに攻撃するが、不浄のものも効果無く、再び幻術に敗北。この知らせに老臣金剛兵衛の勧めで維茂は、幻術に対抗するには神仏の加護が必要と北向(きたむき)観音(かんのん)に参籠。と、夢に白髪の老僧があらわれて維茂を雲に乗せ、紅葉の陣容を眼下に見せる。さらに降魔(ごうま)の剱を授与。かくて維茂は全軍を戸隠へと向かわせることとなる。

官兵が一の木戸を破り二の木戸へ迫れば、賊徒の伊賀(いが)()は幻術の助けを求めて紅葉のもとに走る。しかし、術を行おうと壇に登った紅葉は寒気だって壇よりころげ落ち、官兵に破れた賊徒が火水の幻術を求めて次々に駆けつけるが、もはや紅葉の身体は氷の如く冷えるだけであった。こうした様子を見た子供の経若は祖母の花田の「恥をさらすな」の言葉を思い出して自害。

さて、やっと立ちあがった紅葉を、維茂が老僧にいただいた降魔の剱を矢の根にした白羽の矢で射れば、紅葉の右の肩に立つ。紅葉、今はかなわじと本形(ほんぎやう)現らわし鬼神となって宙に舞ひ上り維茂目がけて火炎を吹き出すと、不思議や空中に金色の光り射して鬼女の頭に触れる。鬼女はたまりかねて大地へどつと落ち、「あら口惜(くちおし)や」と維茂目掛けて飛びかゝるを金剛太郎が横から胴腹深く突き通す。突き通された鬼女が太郎の腕を握って引き倒し、足に踏まえるその後から維茂が首をちょうと打つ。その首、宙に舞ひ上りどこともなく消え失せたのであった。

かくて維茂公は妖賊紅葉退治の次第を都に奏聞(そうもん)。紅葉の首桶を穴の底に埋め離れたところには胴を埋め、後に悪徒が籠らないように砦を壊し、鷲王、熊武を始めとし賊の部類はことごとく死刑。かくて目出たしくくく

  鬼のおまん(、、、)は官兵から逃げおおせたが身の上をかえりみれば多くの人を殺し金銀諸具を盗んだ身。捕らわれて憂き目を見るよりは淵にでも身を投げようかと思うのだが、それにつけてもこれまでの悪事を懺悔(ざんげ)して来世での苦しみを軽くしようと、善光寺如来のお堂に忍びこみ夜のまぎれに拝むのであったが、探索迫っておまん(、、、)は山へ逃げ、死に場所を求めても業障(ごうしょう)の重い身であれば死のうとしても死なれない。かくて戸隠の寺にたどり着き、住僧(じゅうそう)寛明(かんめい)に御弟子となることを願う。寛明が三帰五戒(さんきごかい)を授け(かみ)()り落し袈裟(けさ)と衣を与えればおまん(、、、)は歓び三拝九拝。これで死ねると懐剣で喉笛をついて果てたのであった。寛明はおまん(、、、)の髪を箱に入れ仏間で朝な夕なに菩提を弔い、後におまん(、、、)(ぼう)の毛と伝えられ、さらにはおまん(、、、)が女なればおまん(、、、)ぼゝの毛と伝わっている。


  維茂公は出浦の里に御帰陣、霊験を蒙った七久里の里に鎮座まします北向厄除観音へ御礼参拝、堂宇伽藍を建立。手負いの諸士を温泉に入浴させれば重傷もすみやかに癒えたとのことであった。この七久里の里を当時別処(別所)といった。

 

四 長明(ちょうめい)稚児(ちご)宣澄(せんちょう)4-0

戸隠を舞台とした物語を三つ紹介しておきます。

長明(ちょうめい)火定(かじょう) 『拾遺往生伝』平安時代後期4-1

『日本思想体系』七より。火定というのは火に焼かれて焼身死することですが、心を統一集中させて、無我の境地に入る入定(にゅじょう)のためです。土定とか水定というものもあります。三善(みよし)為康(ためやす)一○四九一一三九)の『拾遺(しゅうい)往生伝(おうじょうでん)によれば、戸隠の住僧・(しゃく)長明(ちょうめい)永保(えいほう)年中一○八一一○八四年)火定(かじょう)したとのことで、戸隠が相当に厳しい修行の地であったことが分かります。中社から奥社に行く男道に公明院がありますが、その庭に長明火定の地があります。

 

持経者(じきょうしゃ)長明は、信濃国戸隠山の住僧である。生年二十五にして、言語を断ちて三年、法華経を誦してどれほどの月日がたったであろうか。毎日、誦すること百部である。いまだ昔から横になったことがない。たまたま客に語って言うには、「吾は()(けん)菩薩(ぼさつ)の生まれ変わりである。六道を廻る娑婆(しゃば)世界(せかい)に来て、生れて、身を焼くこと三度である。今回の臨終は、三月十五日と思っている。しかし兜率天(とそつてん)に登るには期限があるという」こういって、二月十八日、遂に身を焼いた。時に永保年中のことである。

考えてみれば、兜率天に(おもむ)く上人は、西方浄土に赴く者を記す書物では扱わない。しかし、喜見菩薩の後身というのだから、随意滅度(ずいいめつど)であろう。それでここに扱う。

『法華経』によれば喜見菩薩は、違い前世で千二百歳までその身を焼いて日月(にちげつ)(じょう)(みょう)(とく)如来(にょらい)を供養し、再びこの如来の下に生まれてこんどは七万二千歳まで両腎(りょうひじ)を焼いて供養したといいます。これで二度目なので、喜見菩薩の生まれ変わりである長明が戸隠で焼身供養の火定をすれば「身を焼くこと三度」となります。往生伝というのは死んですぐに浄土に赴く者の伝記ですが、長明はまず兜率天に赴き、それから適宜浄土に赴くので随意滅度といいます。

稚児の塔 『沙石集』鎌倉時代後期4-2

慶長古活字十二行本より。自然の中での行者たちの厳しい修行の地である戸隠山も、次第に寺としての体裁を整えていくと、修行だけではなく学問の地ともなっていきます。そこで学んだ機転のきく子供の話が残っています。

 

小児の忠言の事

信州に昔ある人がいた。京から好きな女を連れて国に戻った。京には言い寄る人が多くいたのだが、その男達から送られてきた手紙がたくさんあった。それを夫に隠して置いたのだが、いろいろと告げ口する者がいた。夫は手紙を探し出して、自分は字も書けず読めもしない、子どもが戸隠の山寺にいるからと、これを呼び寄せて、母の前で読ませた。母は色を失い、心ここにあらぬ様子であった。この子はよく出来た子であって、普通の手紙のように、おだやかな内容のように、みんな読んだので、恋文というのは、たちの悪い告げ口であったと男は思って、夫婦仲はそのままとなった。この絲母はあまりに嬉しくて、かわいい玩具をつけて手紙を子に出した。

信濃なる木曽路に懸かる丸木橋 踏(文)みし時は危うかりしを

(信濃の木曽路に懸かっている丸木橋を渡ろうと踏んだときは本当に危ないことでした→昔の男からの手紙を見たときは、本当にはらはらしました)

この子からの返事には

信濃なる園原(そのはら)にしも宿らねど みな(はは)(母)木と想ふばかりぞ

(信濃の園原に立ち寄った訳ではありませんが、どの木も箒木と思うばかりでした→誰もかも母と思うばかりです)

かの閔子騫(びんしけん)に似ている。梵綱(ほんまう)経にもあっていて感心である。すべての男の人は皆我が父であり、すべての女の人は皆我が母であると説いているのにあった心である。感心な心である。父の家を継いだとかいう。

いろいろと脚色されて後世に伝わっているが、もともとの『沙石集』ではかなりに世相を反映している。おそらくは武士の世の中になり、信州のこの男は無学ながらも地方の有力者であって、都から没落貴族の娘を家の格付けのために(めと)ったのであろう。二人の間の子を世継ぎにするために以前の妻との間の子は寺に入れられる。そして貴族の娘であった継母にむかし都でつきあいのあった男から手紙が届くのであって、いま現在不倫をしているのではない。だからこそ子供も別のことのような手紙として読むことが出来るのである。父の家を継いだということはおそらく継母が恩を感じてこの子をもり立てたのであろう。閔子騫(びんしけん)は春秋時代の儒学者。

稚児の塔は公明院と奥社の間にある。

 

(せん)(ちょう)と飯縄天狗 『戸隠山大権現縁起』十八世紀後半4-3

『続神道大系 神社編 戸隠(一)』より。戦国時代に戸隠では真言派(当山派)と天台派(本山派)の争いがあったといわれ、現在では天台宗の寺と真言宗の寺の争いのような話に変形されているが、もともとは戸隠の修験道を真言系ととらえるべきか天台系ととらえるべきかの争いで、寺と寺の争いとして伝えられたのではありません。一七二七年に別当となった乗因の『戸隠山大権現縁起』が伝えるところですが、該当箇所の前半は月々の勤行や祭祀は天台修験によるとか、神前に真言八祖の絵像があるが真言も天台も先輩として尊敬しているので真言系である証拠にはならないなどの理屈が書かれています。ここでは物語的な部分を紹介します。

なお、飯縄山から飛んでくる宣澄の死霊は、三郎天狗といわれた飯縄権現のイメージです。

天台派の宣澄が理を正し、言葉を尽くして説きますが、真言派はもとより愚かで無知であり、法義も解らず身の程も知らず、ただ偉ぶって奢っているだけですので、あいかわらず怒り狂って乱暴ばかりしていて、終に七月九日宣澄法印(ほういん)を殺害してしまいました。それからは宣澄の死霊が(たた)りをして、毎晩のように飯縄山から飛んできます。その形はこれまでの姿のようでいて、眼は日や月のように光り輝き、(くちばし)はとがって熊鷹(くまたか)のよう、左右の脇には肉の翼があり、手足の爪を長くて鷲に似ています。大忿怒(だいふんぬ)の相をして真言派の悪者共を睨みつけるので、「あっ」と(おび)えて苦しみ気絶してしまいます。後には昼間にも現れ、例の真言派の仲間たちを咎めて激しく迫りますので、ついには真言派は皆殺しにされてしまいました。その後は戸隠山は天台派だけとなって、宣澄は天台山伏の守護神となりました。神号を台宗(だいしゅう)鎮護(ちんご)宣澄(せんちょう)大明神(だいみょうじん)といい、墓に鳥居を建て額を掲げて祭所としました。

この話は後に、西光寺という真言派の寺があったが、宣澄の霊に睨まれて炎上したとも伝えられるようになります。怪無山(けなしやま)中腹にいまも宣澄墓といわれるものがあり、中社の宣澄社は里宮にあたります。毎年旧盆の八月十六日には、修験道に深く関連した踊りとしていまでも長野市無形重要文化財の宣澄踊りが行われています。

後書き

ここでは、神話・伝説・民話など世に流布した話を縁起や文芸作品などに仕立てた文書を、説話物語と呼ぶことにしました。縁起や文芸作品などに仕立てた物語ですから、世間に口伝えに何となく流布しているものではありません。作者の名前は分からなくても誰かが何時の時代にか書きとめたもので、縁起、謡曲、浄瑠璃、読み本なども含みます。

信仰の山である戸隠を舞台にして、神さま仏さま、そして鬼などが登場するさまざまな説話物語が書かれてきました。その時期は平安時代の末から始まって現代にまでいたりますが、下限は明治の初めとしました。昔の人々の考えがより強く反映されていると考えたからです。

わかりやすく口語訳し、言葉を補ったり、言い回しを変え、時に要約もしてありますが、内容の変更はしてありません。

 

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