三 鬼の物語                          目次へ

神や仏のおわす霊妙で神秘的な山は、同時に奇っ怪で恐ろしい鬼の世界にも思われます。そもそも九頭龍もその名で呼ばれるようになったのは後世のことであって、一二七五年完成の『阿娑縛抄』では「九頭一尾鬼」と呼ばれていました。もっとも蛇の怪物を鬼といったのであって、いわゆる鬼らしい鬼ではありません。それはともかく、九頭一尾鬼は「九頭龍と仏の物語」で紹介したので、ここでは省きます。いわゆる鬼らしい鬼の話をいくつか紹介しましょう。

戸隠の鬼が活躍する物語の最初は、おそらく、南北朝時代中期に成立したとされている中世の説話集『神道集』の官那羅でしょうか。

人のいい鬼の官那羅(かんなら)                          目次へ

人々を仏道に導き入れるために、物語を語って聞かせる安居院唱導教団とでもいうべき集団があったようです。その語りの種本として南北時代の作かと思われる『神道集』があります。仏道に導く『神道集』というのは現在では妙ですが、日本の神の本体は仏であるという本地垂迹説が横行していた時代ですので、その辺は気にしないでください。その『神道集』の中に、「諏訪大明神五月会事」という諏訪大明神の縁起がありますが、中心は官那羅という戸隠の鬼が活躍する話です。人のいい鬼というのも変な言い方ですが、人間の方がずるがしこいという話です。

『諏訪大明神五月会(さつきえ)事』 十四世紀後半「神道大系 文学編一」より。ただし、不明朗な箇所を「新編信濃史料叢書 第一三巻」のもので補う。

そもそも、諏訪の大明神の五月会というのは、人皇(じんこう)五十八代光孝(こうこう)天皇の御時に始まる。その由来をたずねると、この御代に一人の臣下がいて、この人は在五中将(ざいごちゅうじょう)業平(なりひら)といった。平城(へいぜい)天皇(てんのう)から五代目の御子孫で、優れて立派な方であった。歌は家代々の道で、昔も今もこれほどの歌人は他に例がない。文武二道にすぐれ、日本でも中国でも共にその名が伝わり、諸芸に明るく、書は群を抜き、舞楽は並ぶ者がなかった。
 それで、人々が業平を愛すること限りなく、女房たちは、彼に思いをよせる者も、よせない者も、彼のことを気にしないということはなかった。
染殿(そめどの)(きさき)を盗み出したのはこの人のことである。この后は実の名を若草の女御(にょうご)といった。后を犯すことは四人、捨てた女性、また叶わずも思いこがれた上下の身分の女性で、歎き愁えて、あるいは身を投げ、あるいは食を断って死んだ者の数は、合わせてどれほどになるか知れない。しかしながら、朝廷から咎めを受けたことはただの一度もなかった。
 業平は清和(せいわ)陽成(ようぜい)光孝(こうこう)と三代の(みかど)に仕えた。特にこの業平は笛の名人であった。日本どころではなく、この人間世界の第一人者といってよかった。

光孝天皇の時代、信濃の国に一人の鬼王がいた。日本国に来てから九年になる。都へ常に上って人を犯すこと実に数限りない。鳥の類、童子あるいは美女と、それぞれ相手の望みのままに身を変じて遊びまわった。
 この鬼はたいそう笛を好んで、世界には自分ほどの者は一人しかいないと思っていた。名を官那羅(かんなら)といい、鬼婆国(きばこく)乱婆羅(らんばら)(おう)から数えて五十二代の子孫である。官那羅はふしぎな笛を持っていて、上の(ふし)には、房々とした青葉が一房と小葉が二房、全部で三つの青葉がついていた。日が暮れると露が下り、入れて置いた器も濡れてしずくが垂れる。竹の色も今切ったばかりに青い。それで青葉の笛ともいう。

 この笛の素晴らしさは、口に当てれば、師から習わなくても、思うようにいろいろな曲を吹くことができる。ただし、笛の吹き手をえりごのみする。総じて音声あるほどのものならば、自分の心にその音声を思い浮かべれば、自由自在である。また事の善悪、吉凶まで覚ることかできる。ただし、臣下以外ではそうはいかない。
 在五中将の業平はなんとしてもこの笛を手に入れてわが国の財宝にしたいと思い、笛を百本こしらえて、腰に差したり懐に入れておいた。そうして、あの鬼王に会うため高山や幽谷に出かけていっては、夜ごとに秘曲を吹いたので、天人をはじめ鬼畜にいたるまで、(たえ)なる気持になった。
 そのうち、ある夜の遊びに、例の鬼王と出会い、共に()(かん)(もん)や北野辺りまで遊びに出た。
 業平は鬼王の笛を手に取って、

「あなたがどういう天人でいらっしゃるか、わたしは知りませんが……」といいつつ、雲化(くもあけ)(青葉)というこの笛を借りて吹いた。鬼王はもの静かに口を開けて聞いている。業平は笛にまかせて吹く。これは二十五菩薩が来迎される時の自然の法音を吹くのであったので、鬼王は、これまで聞いたことのない妙なる楽であると思って聞いていた。夜もふけるままに、鶏の鳴く頃になった。
 鬼王は、
「もうまもなく鶏も鳴くでしょうから、笛をいただいて帰りましょう。明日の夜はどこで遊びをなさいますか。あの大原の松の下がよろしいと思うのですが」という。
 業平はこれを聞いて、
()(わた)(やま)のあたりはいかがですか」という。
 鬼王は、
「どこでもよろしいです。会いに参りましょう。ただ、その笛は、頂いてまいります」という。
 業平ははっきりしないでいて青葉の笛を隠し、取り換えて別の笛を出す。青葉の笛と少しも違わないのだが、鬼王は、「これは違う」といって受けとらない。取り換えては出すのだが鬼王は「これは違う」といって受け取らない。鬼王は業平がふざけて自分の心をじらそうとしているのだと考えて時間を過ごすうちに、鶏が鳴いてしまった。鬼王はたいそう驚き、笛の事を放っておいて帰っていった。魔王は鶏の声を聞くと威力を失ってしまうのである。
 さて業平は、笛をうまく取り上げたのだが、夜の明けぬうちに、その笛を帝に献上した。帝は、人間世界のどのような賢王でも、これほどの笛は持つことはないだろうと喜ばれ、何事につけても日本国は他の国よりも素晴らしい国である、と思われた。また業平の威勢も日増しに盛んになった。

一方、鬼王の官那羅は、中一日おいて(うし)(こく)(午前二時)に、内裏にやってきて、御殿の南面の庭に若衆の姿で立ち現れた。
「その笛は、この鬼王にとっては五十七代まで伝わってきたものです。早くお返し下さい。代わりの笛を探してさし上げますから、その笛はお返し下さい」といい、
「あなたは正直な帝でいらっしゃいます。どうしてお返し下さらないことがありましょう」ともいった。
 帝は、返したくないと思われたから、どうとも返事をなされない。
 鬼王は怒って、正体をあらわすと、身のたけは二丈ばかり、体の色は五色で、身から火を吹き出し、燃えて出る気は風となる。人々はそれに悩まされ、都中は大騒動になった。鬼王の出す気の風にあたって苦しむ者は幾千人とも知れなかった。

それでも帝は首をお振りにならず、
「汝はこの王土に生まれながら、狼藉である。退散せよ」とおっしゃる。
 鬼王は帝の言葉に恐れ入って退散したが、ただではさがらず、帝が寵愛なさる十五歳と十七歳になる若い二人の女房を引っさげて行った。
 帝は心中穏やかならず思われて、鬼王追討に満清将軍を戸隠に下向させることとした。満清はその命令を受け、これは異界への長い旅になると思い、力及ばずとも思ったが出立することとした。満清は妻子と別れを惜しみ、人間として誉れあるのも今ばかり、悲嘆のほどもいうまでもない。満清は当年二十九歳、その七月十日に都を出立した。軍勢として従う者は二万七千余騎にも及んだが、みなこれを帰した。
 昔は国王の崩御の時には、公卿一人、女房一人、侍一人を付けて土中に埋めた。この殉死の習俗は(すい)(にん)天皇(てんのう)の時、これを憐れまれて、土で人形を造って埋めたので、(まつりごと)もよいものとなった。満清の行いも同じ事である。今、満清は侍たちを憐れみ、みんな帰したのもなかなか出来ないことである。
 供人は計十二騎を整えて下向した。将軍が宿場を次々に通過して行くと、美濃と尾張の境にある洲俣河(すのまたがわ)を渡って東の岸に着いた時、年の頃、三十ばかりの男と行き会った。楠の葉の紋の水干(すいかん)を着て、黒羽(くろつば)の矢を負い、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓を持ち、栗毛の馬に黒い鞍を置いて乗っている。この男が将軍に、
「あなたはどちらへお出でになるのですか」と尋ねる。
「信濃の国へ」と将軍が答えると、行き会ったその人は、
「あなたは立派な大将軍とお見受けします。お供をいたしましょう」そういって連れだって下向した。
 その夜は黒田の宿(愛知県一宮市)に泊まった。次の日、山道にさしかかって行くと、伏屋(岐阜県羽島郡)という所で、また年のころ三十四、五歳の男が、梶の葉の紋の水干に、白羽の矢を負い、二所藤(ふたところとう)の弓を持ち、鹿毛(かげ)の馬に白い鞍を置いて乗っている。男が
「あなたがたはどちらへお出でになるのですか」と尋ねる。先に出会った人が、
「信濃の国へ下向するところです」と答えると、今度行き会った人は、
「わたしは下野国(しもつけのこく)の宇都宮に用事があって下向します。碓氷(うすい)(とうげ)を越えて行きます。相模(さがみ)の国にも用事があって参ります。お供をしましょう」そういって連れだって行く。
 将軍は二人の供ができたので退屈はしない。やがて境を越え、信濃の国の岡田という所で、将軍は出会ったこの人たちに、
「あとどのくらい連れだって行けますことか」といった。
 二人の侍は、
「将軍は、どちらへいらっしゃるのですか」とたずねる。
 そこで将軍は、
「今は何をお隠し申そう。戸隠山でございます。鬼王を討ちとれ、という天皇の命令で、その使いに下向(げこう)するのです」と打ち明けた。
 二人の行き会った者は、
「それをどうしておっしゃって下さらなかったのですか。宣旨の書状を拝見させていただきたい」という。
 そこで将軍は宣旨の書状をひろげて読み上げた。二人の行き会った者たちは、
「同じ木陰に雨宿りをし、同じ川の水を飲み、ただ一言言葉をかわすのも、行きずりに袖をふれあわせるのも、すべてこの世の事だけでなく、前世からの縁だといいます。そのうえ、宣旨のお使いでいらっしゃる。ご一緒に何とかいたしましょう」といってうち連れ立って行こうとする。将軍は、
「お志のほどはまことにはお礼の申しようもありません。重恩の者たちもみな都に留まらせてきました。あなたがたもどうかお留まり下さい」という。
 二人の侍は、これを聞いて、

「われわれは二人ともこの国の者で、案内はよく知っています。鬼王は、宣旨のお使いが下向すると聞いて、戸隠山から出て、浅間の嶽にいます。およそ人の行かない所です。わたしたちが案内者になりましょう」といって、うち連れて下向した。
 そうこうして浅間の嶽に登り、鬼王の城に近づいた。城郭の様子は言葉にいいようもない。震石の築地(ついじ)を廻らし鉄の扉を立て、回廊は十八丁あって、八つの門が立っている。南門から入ろうとするが、門は内から強く(とざ)している。行き会った侍たちは二人して押し開き、
「将軍はしばらくここでお待ち下さい。我ら二人、鬼王がいるかどうか見てまいりましょう」という。
 二人の侍は太刀を抜いて門内へ討ち入った。鬼王も手下の眷属(けんぞく)をくり出して大いに防戦したが、二人の侍に手下は多く討たれてしまった。鬼王大将軍も出てきてさんざんに戦うので、二人の侍は城外へ追い出される。鬼王は侍たちを追って出てくる。満清将軍は鬼王の姿を見て、その異様な姿にあっと驚いた。
 身のたけは二丈ばかり、身から火炎を出して、足は九つ、顔は八つの鬼神である。将軍も矢の続く限りに戦った。そのうちに鬼王は二人の侍を左右の手に一人ずつひっさげて門内へ入っていった。満清将軍はいよいよ力が抜けたが、すこしも騒ぐことはない。
 しばらくして、二人の侍はあの鬼王を縛り上げ、先に追い立てながら出てきた。
 そうして二人の侍は、
「将軍の心をためしてみようと思って、鬼王に捕えられたのです。あなたはすこしもお騒ぎにならない。さすが大将軍です」と褒め称えた。
 鬼王を将軍の手に渡すと、二人の侍は、
「二つと無い命を捨てるつもりで鬼王を討ち取りました。将軍に従った兵士として安堵しました」そういって、二人は満清将軍と連れだって京に上ったのだった。
 そして栗田口に着くと、信濃の国の人々は命じられて鬼王を縛った繩を取った。
 二人の侍は、

「ここまでお送りしてきました。今は、鬼王を一刻も早く帝にお目にかけ、ご褒美をいただきなさい。われわれはここから帰ります」という。
 将軍は、
「都に入り、帝にお目にかかって帰られるのがよいのではありませんか」という。
 二人の侍は、
「わざと帝にはお目にかからずにおきましょう。おいとまします」と、二人はいうのだが、将軍は重ねて、
「お住まいはどちらですか、承りたく存じます」という。
 その時、二人の侍のうち、先に行き会った者は、
「我こそは尾張の国の鎮守、熱田の大明神なり」といって姿が見えなくなった。
 後から行き会った人も、

「われこそは信濃の国の鎮守、諏訪の大明神なり」といって姿が見えなくなった。
 将軍はうれし涙を流し、再拝して別れたのだった。
 そして都へ入ると、京中の貴賤(きせん)上下(じょうげ)をとわず、人々は鬼王を見物しようという。三条河原に集まる車は数万で、見物人が集まった。院にも御幸なされてご覧になった。鬼王を三條河原で切ろうとしたところ、鬼王が怒って吹きつける息は見物人たちを悩ました。鬼王の首は切っても切っても元通りになるので、切りおおせない。帝も困ってしまわれた。しかし、諏訪と熱田の大明神が護ってくれ、神の力で切ることが出来たのである。
 帝は満清を大納言にし、信濃の国をはじめ十五ヵ国を不輸(ふゆ)()(でん)として賜わった。そこで満清は熱田の大明神には、その時に四十八ヵ所の土地を寄進し、諏訪の大明神には、この時から特別に十六人の大頭を定めて、諏訪郡をすべて寄進した。大頭は桓武天皇の御代からあるが、この時に特別に定められたのである。

そもそも諏訪の大明神だが、天竺の舎衞(しゃえい)(こく)波斯匿(はしのく)(おう)の娘に金剛女の宮という天下第一の美人の娘がいた。十七歳になった時から、急に体が金色に変わり、生きながら鬼王の姿となられた。身には鱗がはえ、見る者は心も消え果て、身体と別々になってしまう。
 これは前世において犯した罪が重いために、このようになったのである。
 昔、善光王の時、彼女は后になったが、三百人の女たちに嫉妬し、大蛇と共に女たちをうつぼ船に入れて責め殺してしまった。その罪によって、こんな鬼王の身となったのだ。この世における業の報いを次の生でうける順生業(じゅんせいごう)、現世でなした業の報いを現世で受ける順現業(じゅんげんごう)、この世における業の報いを来々世以後で受ける順後業(じゅんごごう)からは、逃れがたいからこのようになったのである。
 その時、祇陀(ぎだ)大臣という人に預けて、東に宮殿を造り、そこへ大臣と娘を二人押し込めた。ただ入口を一つだけ開けておいた。この宮殿を城宮といい、また構営ともいった。大臣は、
「まるで鬼と二人でいるようなものだ」と心の内で思った。

 時に、大王が釈尊をお招きし、御説法をしていただくということを金剛女の宮は伝え聞いて、
「わたしが、そのご利益にあずかれないのは悲しいことだ」と思われた。
 そこで王宮の方を礼拝し、
「わたしには、この人間世界の汚れた世はうれしくは思えません。私にもご利益を下さい」といった。
 その瞬問、仏の眉間から光が放たれたかと思うと、金剛女の宮の姿は貴い仏の三十二相を具えられ、聴聞の席に列席した。
 大王はたいそう不思議に思われ、この姫にはほかの者を婿(むこ)にとってはならないと、祇陀大臣を婿にとった。
 金剛女の宮の亡くなられた場所はだれも知らない。この宮は、仮りの人間で、()(しゃ)(じょう)()(会う者は必ず別れる)という真理を示すためだったのかもしれぬ。本地は千手観音である。後に日本に渡って住まわれた。

さて、よくよく考えてみれば、神武天皇はこの宮の御子で、先祖はみな今の諏訪の宮の先祖であり、守護のためにおられる熱田の大明神はこの諏訪の大明神の臣下の甥で、宇津宮の御子であり、宇津宮は諏訪の大明神の弟である。満清はこの大明神の()()()()であり、その上また親でもある。その古い関係を調べて守護して下さったのである。上下二所の諏訪とはこれである。上の宮は祇陀大臣、本地は普賢菩薩。下の宮は昔の金剛女の宮で、本地は千手観音である。昔の事を忘れず、神功(じんぐう)皇后(こうごう)新羅(しらぎ)征伐(せいばつ)の時もお守りなさったという。

この満清の立願によって、諏訪の五月会は、始まったのである。

源満仲と戸隠山                          目次へ

鬼退治で有名なのは(みなもとの)頼光(らいこう)とその部下の渡辺(わたなべの)(つな)です。退治される方の鬼は大江山の酒呑(しゅてん)童子(どうじ)ですが、この源氏と鬼とは戸隠山と深い関係にあります。一三七○年頃の軍記物『太平記』には「其後此の太刀多田(ただの)満仲(まんじゅう)が手に渡って、信濃国戸蔵(とがくし)(やま)にて又鬼を切たる事あり。依之(これにより)其名を鬼切と云なり。」とあり、これが戸隠の鬼が広く知れ渡った最初でしょう。多田満仲とは源満仲のことで、頼光の父です。

『太平記』の話は簡単すぎますが、これをふくらませた話が江戸時代に流行した人形劇の金平(きんぴら)浄瑠璃六孫王(りくそんおう)(つね)(もと)』(一六五九年)の冒頭部分にあります。

六孫王経元とは清和天皇の第六皇子・(さだ)(ずみ)親王(しんのう)の長子である(みなもとの)経基(つねもと)のこと、清和源氏の本家であり、源満仲の父で、源頼光のおじいさんであり、後で紹介しますが、戸隠で有名な鬼女紅葉伝説の元となった『北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝』で、紅葉を側室として寵愛した源経基のことです。『六孫王経元』は長編で、後ろの方は坂田(さかたの)金時(きんとき)とその子供の金平(きんぴら)の話ですので、戸隠の部分だけ紹介しましょう。 

『六孫王経元』一六五九年(「金平浄瑠璃正本集」角川書店より)

初段目要約

天暦(てんりゃく)二年八月十五日、名月が二つ出るという異常なことが起こります。占いによれば北方の月が滅びた(たいらの)(まさ)(かど)の怨霊、そのために主上が病気になります。六孫王経元が、渡辺綱の父である三田左衛門延綱を従えて北方の月を弓で射ると、鬼形を現して大地に落ちます。三田延綱が首を打つのですが、天に飛び上がって行方しれず。とはいえ主上の病気もなおりますから、経元はご褒美に源氏の姓を賜ることになります。これが初段です。

二段目
 その後、諸国の侍たちは、今度、六孫王経基公が源氏の姓を賜り天下の武将になられたと聞いて「いざ、御奉公申し上げよう」と、それぞれ経基公のお屋敷へ挨拶にあがる。おりしも経基公は少々差し障りがあって、嫡子(ちゃくし)の満仲が応対に出られ「みなみな、これへこれへ」とおっしゃった。
 侍たちはそれぞれに千秋万歳の御喜びを申し上げたのだが、信濃の国の住人で望月左近の大夫有茂という者が進み出ていうには、
「今度、経基公が魔王を御退治になられたことは、天晴れ弓矢の誉れでございます。満仲殿はその御子息でありますから、ご自身でも変化の物をお討ちにならなければ、経基公の跡をお継になるのにも世の人の嘲りを受けることになりましょう。幸い私の国の戸隠山という所に鬼神が住んでいて、行き来の旅人を悩まし、牛や馬の家畜をつかんでは裂き、田の農民、山の木樵(きこり)も自分の仕事を捨てゝ逃げ隠れしますので、日に日に国も衰え、のちには(汚損で一部読めず)。満仲殿が下向されて退治していただきたい」という。
 満仲は顔色を変えて、
「いかに有茂、汝の言葉は耳ざわりだ。よいか、武将の家を継ぐ者が変化を討たなければ人々の嘲りをうけるとは、どの軍書に書いてあるのか。父の経基は、帝の玉体を悩ます悪魔を退治(汚損で一部読めず)。化物がいない時には武士の頭にはなれないというのか。その上、国の仇と(汚損で一部読めず)。帝に奏聞の上、命令を待つか、そうでなければ、自身の考えで命じても鎮圧すべきである。お前の考えで私に討てと指図するのは怪しからぬ事である。無礼である。どうだ」と言われる。
 望月は、しまったという様子で頭を地に着けて赤面していた。
 ここに坂田の源太金末(きんすえ)満仲の後ろに控えていたが、もとより我慢の出来ない男であったので、すると出てくると、
「どうだ望月、ものを知らなければ教えよう。それ、侍の忠信は謀反を企て国家を傾むけようとする者を、ただちに言上し、もし大事なことをぐずぐずしていたら、大変なことになると申し上げるのが本分である。なんで悪魔や変化の物などを討ち取ることにあろうか。信濃の国にいながら自分自身の手で鬼神を討ちもせず、お上に申し出るのは侍の恥辱である。自身の恥辱もわきまえずに出てきて、利口顔に、御主君の満仲様に、お討になってはなどと気の利いたような考えを申すことこそ大笑いである。
 お前がいうような事だから、それは定めて狐、狸のが化けたのであろう。お前のような大臆病者は侍の内に入れるのも穢らわしい。はやそこを立さ去るがよい。どうでも一言でも口答えするならは、殿が、などとはいう必要もない。この金末が微塵にしてくれよう。どうだ」という。
 満仲は御覧になっていて、
「よしよし。あの程度の侍は心のほどもそんなものであろう。このたびは、ここにお出での方々の手前もあり、許す」とおっしゃって席を立たれれば、一座の人々は御言葉に安堵して、
「まず、立たれよ」望月を引っ立てて宿所へ帰られた。

さて、その後、満仲は金末を呼ばれ、
「望月の言うことは、たとえ彼は身分賤しい者で、わきまえがなくいったことではあるが、私が若い身で鬼神を討てといわれて、討たないでそのまゝにしておくならば、理屈の善し悪しは別として、臆病者といわれたら悔しいことだ。密かにお前と私の二人で戸隠山に行き、鬼神を討とうと思う。どうだ」とおっしゃる。
 金末はうけ給わり、善し悪しの判断はともかく、御供せよというからには、あれこれいうこともなく、ただ「ごもっとも」と申し上げる。
 満仲は満足して、「それならば密かに出かけよう」と旅仕度をして、金末一人を供にして、信濃路目指して行く内に、ほどなく、野になった。
「いざ、諏訪の明神に願をかけよう」と、神前で(わに)(ぐち)を「てう」と、打ち鳴らし、
「南無や諏訪の大明神、戸隠山の鬼神を討せ給え」と深く祈られ、その夜はそこに籠もられた。
 夜半頃のことであったが、諏訪の大明神は八十才ばかりの老人に変身し、松尾の神に一領の緋縅(ひおどし)(よろい)を持たせ、満仲の枕元に置き、
「これ満仲、この鎧は以前に利仁(としひと)将軍が東国の賊を討つ間、この宝殿におさめて置いた鎧である。ただ今、お前に与えるこの鎧を着て戸隠山に分け入り、鬼神を討つならば、なんの問題も起こらずうまくいくであろう。またお前の行末を守ってやろう」といって消えるようにいなくなった。
 満仲はがっぱと起あがり「あゝ、有り難いことだ」と、虚空を三度伏し拝み、すでにその夜も明けたので、そのまま出立なされた。明神からいただいた鎧に、鉄丸(てつまる)という剣を身につけ(汚損で一部読めず)。金末も武装して主従二人で戸隠山へとお入りになる。
 あちこちを見わたすが眼を遮る物もない(汚損で一部読めず)。
 なお奥へと山にわけ入て見れば、大きな岩穴がある。満仲は穴の脇に立ち寄って大のこはね(ヽヽヽヽ)を差開け
「さあ、鬼神もよく聞け。我を誰だと思う。清和天皇の御孫、六孫の嫡子、満仲とはわが事である。どうあっても逃がさぬから尋常に出てまいれ。どうだ、どうだ」とおっしゃる。
 その時、草木振動して、その身丈が一丈ほどの鬼神が岩穴の中から現れ、満仲を目がけ、ただひと噛みにしようと飛びかかる。満仲は体をかわして、ちやうど(ヽヽヽヽ)切る。鬼神が切られて逃げる所を金末が逃がすまいと追かける。鬼神は取ってかえして金末とひっ組んで上になり下になり取り組む。鬼神の力がまさったのであろうか、鬼神が金末を取ておさえるところを満仲が走りよって鬼神の首を水もたまらず打ち落とし、金末を引き起して鬼神の首を持たせ、都をさして上っていく。満仲の御手柄天晴れ、並みの男の出来ることではないと皆して感心しない者はなかったのだ。

第三段以降は、金平浄瑠璃のパターンよろしく金末とその子である坂田金時が、敵役の望月に悩まされる苦労話へと話は進み、もう戸隠は関係ありません。

酒典童子は戸隠明神の申し子                          目次へ

源満仲の子が頼光で、お話の世界では満仲の家来の金末の子が坂田の金時ということになっていて、子供同士の頼光と金時も主従の関係です。そして江戸時代の一場面だけの他愛もない絵本ですが、頼光と金時も戸隠山で鬼を退治しています。ですから戸隠山の鬼は随分と有名だったのでしょうが、その頼光と金時が大江山で退治した酒典童子が戸隠で活躍する浄瑠璃もあります。


酒典童子若壮(しゅてんとうじわかさか)
要約 (「
古浄瑠璃正本集第三」校訂者 横山重 角川書店 昭和三十九年三月より)

初 段

(かん)()天皇の御代のことです。越後の国、寺泊(てらどまり)に、石瀬(いなせ)前司(ぜんじ)俊網(としつな)という武士がおりました。信濃国、戸隠の明神に百日間の参詣をした時、(くろがね)の大蛇が出て来て妻の胎内(たいない)に宿って生まれた子供の名を悪童丸といい、たいそうな力持ちでした。悪事を好んで乱暴狼藉、両親は「仏道に精進させ、慈悲の心をもつようにしよう」ということで、国上(くがみ)の寺に預けました。
 しかし、寺に入った悪童丸は、気にくわない者があれば、腕を取ってねじ曲げ、腰骨を打ち折り、乱暴はなおりません。そこで、寺の稚児、法師たちは「乱暴が続けば参詣の人々まで悩ませ、寺は衰微して鬼や狐の住み家となってしまいます。悪童丸を、追い出して下さい」と上人に訴えました。
 ところが悪童丸は「法師どもが俺を侮どるから乱暴もしようというもの。自分の非を棚に上げ、俺を追い出そうとは以ての外。出来るものなら俺を追い出してみよ」と、仁王立ち。
 寺中の法師が手ぐすね引いてひしめくと、悪童丸は銅のような爪を怒らせ、太刀、長刀をとって取り巻く一山の稚児、法師を樫の木の棒でたちまちに百六十人も打ち殺します。そして寺中に火をかけると、信濃の山へと落ちて行ったのでした。

二段目

戸隠山には、四人の盗賊の頭領が三百余人の手下を従えて立て籠もり、往来の者を襲っていましたが、国上の寺を出て戸隠山に分け入った悪童丸の前にこれらの盗賊が現れます。
 (よき)、鎌、熊手、手鉾などをもった盗賊が悪童丸の前後左右を取り巻きますが、それを谷へ投げ落とし、大きな松の木を()じ折ると「俺を誰だと思う。越後の国、石瀬(いなせ)(とし)(つな)が一子、悪童丸とは、俺のことだ」と、雷のような大音声をあげます。盗賊たちは頭を地に着け三拝九拝。「まつぴら許させ給え」と、手をすって拝むのでした。
 こうして悪童丸を頭に戴いた盗人共は岩屋に城郭を構え、いよいよ悪事に励みますから、近隣の住民たちは、門戸を閉じ、出歩くことも出来なくなってしまいました。そこで国の大将、片桐(かたぎり)帯刀(たてわき)諏訪殿は帝に奏聞申し上げ、退治していただこうと都に上ったのでした。そして、越後の国上寺からも多くの僧も悪童丸を訴えにやってきたのでした。
 こうして、摂津(せっつ)の国、大田の判官盛十が、和泉、河内の勢、三千余騎を従えて信濃を指して下向したのです。
 険しい戸隠山を前にして官軍が(とき)の声を上げると、賊も驚いて同じように鬨を合せたので、向こうに見える森の内が本拠と知られ、武者が四方から取り巻き、悪所もかまわず寄せかけます。悪童丸は八尺余りの大石を、目より高く差し上げ、天にも響く大音声で、「大田殿への御挨拶にこの大石を持って来た」と、にっこと笑い投げつければ、官軍の者たちは落ち重なって深い谷ひとつが兵で埋まってしまいました。しかし、さすが寄せ手の官軍も強いもので、新手を入れ替へ攻めるので、盗賊共はことごとく討たれてしまいました。
 ひとりになった悪童丸は、腹を立てると、一丈ばかりの金砕棒(かなさいほう)を持ち、大手を広げて官軍を追ひまくり、大田をひっ掴み殺したのでした。そしてなお戸隠山の奥へと入ってしまいました。

三段目

生き残った官軍共が都へ帰り、悪童丸をどうしたらよいかと相談していると、万里(までの)小路(こうじ)大納言(だいなごん)が、
「悪童丸の親の石瀬夫婦を召し取って、獄屋に押しこめれば悪童丸とて、親を見捨にはしないでしょう。出頭してきたところを獄屋におし籠め、押し殺したらよろしいでしょう」といいます。
 こうして親が捕らえられたことはすぐに悪童丸の知るところとなります。
「あゝ、口惜しいことだ。しかし、まず父母を出してもらって俺が代わりに牢獄に入り、時刻を見計らって踏み破ることにしよう」と、都に上ったのでした。
 庭上に伺候した悪童丸は頭を地につけ、「この悪童丸を代わりに牢獄に押しこめ、父母を、助けていただければ、(しょう)(じょう)()()の御恩」と怒れる眼より涙をはらはらと流し、我と我が手を後ろへ回し、自ら縄にかゝったのでした。

四段目

さて、大力の悪童丸こととて、三尺の詰め牢に八、九寸の材木を七重八重に貫をいれ、楠の丸太を手かせ足かせにして押し込み、髪を四方へ取り分けて天井に(から)めつけ、上には大石と大木、山の如くに積み上げましたから、通うものは息ばかり、動く所は、両眼だけです。と、番の者共が話しているのが聞こえます。
「大唐までも並ぶものなき悪童丸も食事を与えなければ干し殺しだ」
「それもそうだ。しかし、あれ程の力持ちが、この牢を破らずにいるとは、あわれなことだ」ともいいます。
 これを聞いた悪童丸は、
「さては我を飢え死にさせようというのか。しかし、奴らがいうように、この牢を破らずにいるのは心残りなことだ」と、日の暮れるのを心待ちしていました。
 さて悪童丸、眼を塞ぎ「南無戸隠の明神」と心に念じてある限りの力を出し、足を「えい」と引けば、(ほだ)足の金が一度に抜け、絡みつけた左右の髪を振り払い、胴の大綱を切って「えいやっ」と立あがれば、さしもの牢も山を崩すように倒れます。飛び出した悪童丸は、足に任せて逃げていきます。番の者共が驚いて、追っかけますが、大力の者にはよくあるように、足の早いのは飛鳥のようでした。
 かくて、悪童丸は、また信濃国の戸隠山に上り、押しつぶした人の数は、恐らくは十万に及ぶだろう。天竺(てんじく)(しん)(たん)唐土(もろこし)までもこのような力持ちはあるまい」と、大高慢になったのですが、この時、十四、五才の小法師が忽然(こつぜん)と現れ、「その方は力が万人に優れ、大自慢と聞く。我と力比べをしよう」と、にっこり笑います。悪童丸が飛びかかつて、むずと組めば「得たりやおう」と、小法師は悪童丸を宙に引さげて虚空を指して上っていきました。
 小法師と見えたが、実は、眼は鏡の照るのに似て(くちばし)(とび)のような大唐の天狗、善界坊(ぜがいぼう)。「汝、高慢のゆえに、天狗(てんぐ)(みち)()ちたぞ」というのでした。
 悪童丸はこれを聞て、「さてはそういうことであったか。さてこの国はどこの国か」。
「無色界である。今に魔王が出現し、三熱(さんねつ)の苦しみを、汝に見せよう」と善界坊天狗。
と、にわかに虚空が振動し、玉座に現れたのは色界に住む魔敬(まけい)修羅(しゅら)(おう)目尻(まなじり)八角に裂け、頭は夜叉(やしゃ)のごとくで、息をつくたびに口から火炎をだし、黒煙が天に立ち上ります。右の座には、天智天皇の御宇に天下を暗闇とした藤原の千方(ちかた)で眼が五つ、口の脇は両の耳まで裂けています。左の座には、大弓を持った氷上(ひかみ)(かわ)(つぐ)、次に、眼が五つで鉾をつく蘇我の(いる)鹿()、面が二つで色が青いのは、浄御原(きよみはら)の天王を殺そうとした大伴の皇子(おうじ)などなど。
 しばらくして修羅王が「どうやら、人の匂いがする。連れて参れ」といいます。善界坊天狗が、悪童丸を押し出すと、修羅王は、「(なんじ)は魔王の四、五人も、組み止めて死んでやろうと思っているのだろうがおさえておけ。汝は日本に帰ったら鬼の姿となり天下を乱すであろう。力を添え、通力を授けよう」という内に、虚空がにわかに振動すると、修羅王は、
「もう三熱の時刻か。いかに悪童丸、天人の五衰(ごすい)、人間の八苦、我にはまた三熱の苦しみがある。日に三度、熱鉄の湯を飲む。これが苦しみの第一。そら見てみよ」といえば、黄金の銚子に、白銀の盃を持って天から童子が下りてきます。修羅王は熱鉄の湯をさらりとほし、次々に盃を送っていく。と、あっという音とともに、修羅王一同消え失せ、また月の出るように現れて苦しげな息をほっとつき、はき出すありさまは身の毛もよだつばかりでありました。修羅王は、
「どうだ悪童丸、この苦しみをよく見ておけ。さて、汝のこれからの一生を語り聞かせよう。汝が越後に帰ると、天より四人の鬼が下り臣下となるだろう。さらに比叡山に上るが、伝教大師に山を追い出だされる。それから、高野山に上るが、ここでも弘法という曲者(くせもの)が封じ手を用いるので、丹波の大江山に住むことになろう。そして時の帝より十六代の後、一条の院の時、摂津(せっつ)(かみ)・頼光という者が現れるが、汝の大敵である。頼光に従う郎党の内、渡辺(わたなべ)(つな)と云う者は、汝の郎党、茨城(いばらぎ)童子(どうじ)いう鬼と戦うことになろう。さあ、はやく日本に帰れ」と、修羅王の形は消え失せてしまいました。はっと思って眼を開き、よくよく見れば、悪童丸はやっぱし、元の信濃の戸隠山にいるのでした。

五段目

悪童丸は、「父母はどうなされたであろうか」と、戸隠山を出て、越後の国へと急ぎますが、父は八十年以前に、子の悪童丸が帝に背いた(とが)で切腹、母はそれを悲しんで歎き死んでいました。これを知った悪童丸は「あゝ無念だなあ。ぜひこの仇を討たずにおくものか」と、思う一念で悪鬼となり、雲に打ち乗り、都を指して上っていったのです。
 都に着くと東山に立て籠もり、自在天(じざいてん)の魔王共を、仲間に入れようと、目を塞ぎ、呪文を唱えると、空がかき曇り、四人の鬼共が天降ってきました。悪童丸は打ち眺め、「汝らは兼ねて聞き及ぶ無色界の外道だな」という。四人の鬼共、
「その通りです。魔敬(まけい)修羅(しゅら)(おう)の言いつけで味方をするために参りました」。
「左様か。俺は若年の昔より常に酒を好んだので今より名を(しゅ)(てん)童子(どうじ)ということにする。方々は、茨城(いばらぎ)童子(どうじ)(いし)(くま)童子(どうじ)(かな)(ぐま)童子(どうじ)(とら)(くま)童子(どうじ)と名のり、四天王となって使えよ。この戸隠山では不都合ゆえ比叡山に上らん。」と、四人の鬼共を召しつれ、比叡山へと急ぎました。
 ところが山の御主である伝教大師が駆けつけて、
「汝ら、我が住む山に来ることは許さない。早く出ていけ。(かたじけ)なくも仏法の力を見せてやろう」と、笏を取なおし、数珠を打ちます。
 酒典童子はこれを聞いて、
「面白い。衣を着た僧に向かって腕立てはしないことにしよう。邪法と正法の勝負だ」。
「お前が常に用いる天に上がり、山を裂く、術をやってみよ」と伝教大師。
「それこそ望むところ」と、石熊童子が天に向き呪文を唱えると、枯れた草木に花が咲き木の実を付けます。伝教大師が虚空に向かって、息をふっと吹きかけると、大風となって咲き乱れた花を庭の塵と吹き散らす。
 次に控えた金熊童子が手を打って目を塞ぎ何か念じると、三十丈の楠が俄に生えでます。伝教大師は騒ぐことなく「(あの)()()()(さん)(みやく)(さん)()(だい)の仏たち、我が立つ(そま)に、冥加あらせ給へ」と唱えると不思議なことにこの木はずだずだに折れてしまいます。
 茨城童子が腹に据へかねて、奮迅の修羅となって天に向かって叫ぶ声は雷のようでした。伝教大師が少しも驚かず、黙然として座っていると、鞍馬の山の毘沙門天(びしゃもんてん)が、神通の(かぶら)()をもって白雲に打ち乗り光りを放って現れます。酒典童子をはじめ五人の童子どもは恐れ戦いて、「真っ平、謝ります」と、五体を地に着けて礼拝します。また多聞天(たもんてん)が現れを童子たちの上に放ちますと猛火となって燃えかゝります。鬼の童子たちは驚いて、「許されたい」と降参するばかりでです。
 その時、伝教大師は、「さもあらん。さっさと山を出て行け」と酒典童子たちを払い除けます。童子たちは、それから丹波の国の大江山に立て籠もり、さまざまの悪事をすることになります。
 仏法の有り難さ、酒典童子が由来、斯くの如くと聞へし、末世の不思議、これなりと、皆感ぜぬものこそ、なかりけれ。

 
平維茂と鬼の化けた美女                          目次へ

観世(かんぜ)小次郎(こじろう)信光(のぶみつ)の作といわれる謡曲『紅葉狩』は、その発想が浄瑠璃や(くさ)(ぞう)()に取り入れられて、多くのヴァリエーションを作り出していきます。現在は鬼女紅葉伝説として伝わるものの最初の形です。鬼が女に化けて紅葉狩の酒宴をしているのですが、次第に人間の女が鬼になった物語へ、そして女の名前が紅葉へと変化してきました。

 

『紅葉狩』室町中期(半漁文庫の平林香織入力による。ただし、アドアイの部分は山本東本による

本来は謡ですので、独特な表現があります。地の文にあたる地謡がシテの詞のように心情表現をすることも、逆にシテが地謡のように自身の行動を語ることもありますし、ワキとワキツレが声をそろえて謡うこともあります。シテとワキの詞が一体化している場合もあります。これらを現代劇的に口語訳すると、不自然な表現も生じてしまうので、適宜調整をしてあります。御承知おき下さい。

人物

女(実は鬼神)
その侍女
平の維茂(これもち)
その従者
武内(たけうち)の神

 (若い女が紅葉を尋ねて侍女たちと登場)

女 時雨(しぐれ)のたびに色づいていく紅葉を見るために、深い山路を急いで尋ねて行こう。
(観客に向かって)これはこのあたりに住む女でございます。
まことに生き長らえてこの憂き多い世に住んでいたとしても、今はもう、だれも私のことなど知らず、白雲が八重に重なるというその八重の八重(やえ)(むぐら)が生い茂るこのさびしい宿を訪ねる人とてもない。人の目にこそ見えないけれども秋が来て、庭の白菊が色あせてゆく様子も、つらい境遇のわたくしに似ていて、あわれに思われる。
あまりにもさびしい夕暮れに、しぐれてくる空を眺めながら、あたりの木々の梢の色づくさまもなつかしく思われ、こうして連れ立って出かけてきた。

侍女1 連れ立って出かけて来た道ばたの、草葉の色も日ごと深くなっておりますが、木々の下枝の紅葉は、夜の間の露が染めたのでしょうか。朝の野原は昨日より、色の深い紅で、その紅葉を分けて行けば山は深く、いやまったく、風のかけた(しがらみ)は流れ去ることもできない紅葉の落葉です。その紅葉の柵を渡るならば、紅葉の錦が断ち切られてしまうだろうと心配です。
紅葉の錦を断ち切らないように、まずこの()のもとに立ち寄って、あたりの梢を眺めながら、しばらくお休みなさいませ。

侍女2 やあ、ほんとうにみごとな紅葉でありますこと。この所に幕を引きまわして、お酒を一つおあがりなさいませ。
(木のもとで女たちが酒宴を楽しんでいるところへ、平の維茂が弓矢や太刀を持った従者たちを引き連れて登場してくる)

維茂 面白いなあ。時は長月(ながつき)二十日過ぎ、あたりの梢も色とりどりで、錦のような梢を(いろど)夕時雨(ゆうしぐれ)。その時雨に濡れたのか鹿がひとりで鳴いている。その声をたよりに、狩場の先まで来てみたが、まことに面白い風情(ふぜい)だ。

従者1 夜が明けたといって、野辺から山へと鹿が入って行きます。その鹿のあとを追うように吹いてくる風の音を聞けば、(こま)の足なみも勇みます。

従者2 勇ましい男たちが、いよいよ勇み立って弓矢を持ち、野の(すすき)の露を分けて行くと、彼方(あなた)に遠く見える山陰の、待ち伏せの鹿垣(しがき)のある道が険しくて、追われて落ちて来る鹿の声が聞こえます。風の方向にも気をつけましょう。

 (維茂は山陰で酒宴を楽しむ女たちに気づく)

維茂 (従者に向かい)だれかいないか。

従者1 ここにおります。

維茂 あの山の陰の所に人影が見える。あれは、どのような者か、名を尋ねて来い。

従者1 かしこまりました。

(従者は女たちのところへ行く)

従者 もしもし。どなたかいらっしゃいませんか。

侍女 どなたか、とおっしゃるのは、どちらさまでいらっしゃいますか。

従者 ここにおいでになられますのは、どのようなお方でいらっしゃいますか。

侍女 (維茂の方を指して)まず、あそこにおいでなのは、なんと申すお方でありますか。

従者 われらは平の維茂でございます。

侍女 そちらが、「これもち」であっても「あれもち」であっても、それはどうでもよろしゅうございましょう。こちらはただ「あるお方」とだけ申しあげてくださいませ。

従者 承知いたしました。

 (従者は維茂の所にもどって報告する)

従者 名を尋ねに参りましたが、身分の高い女の方が、幕を引きまわして屏風を立て、酒宴の最中と思われましたので、丁寧(ていねい)に名を尋ねましたところ、名をいわずに、ただ「あるお方」とだけ申しました。

維茂 ああ、ふしぎなことだ。このあたりでそのような人がいるとは思いもよらない。とはいえ、誰であるにしても、身分の高い女性が道のほとりで紅葉狩をしている。とりわけ酒宴の最中とあっては、いずれにしても無礼にも馬に乗ったまま通るわけにはいかないな。

 (維茂、馬から下りる)

地謡 維茂は馬から下りて、足音を立てぬように(くつ)を脱ぎ、道の向こう側の山陰の、岩の険しい道を通ろうとなさる、維茂のその心くばりは比類ないものであった。

 (通り過ぎようとする維茂に女が呼びかける)

女 まことに、とるに足らぬ身分の者ではありますが、この山の奥に来て、他人は知るまいと気を許し、ひとり眺めていた紅葉です。その紅葉(もみじ)()のように人に見られてしまったのでしょうか。さて、どうしたらよいのでしょうか。

維茂 わたくしには、あなたがどのような方ともわからないが、ただ高貴なお方に遠慮して、そっと通ろうとしているだけのことなのです。

女 わたくしが誰であるとも、ご存じでないにしても、案内をご存じでないこの道のほとりで、縁あることとお立ち寄りなさいませ。

維茂 これは思いも寄らぬお言葉であります。どうしてわたくしをお留めなさるのでしょうか。

 (こういって維茂が何事もないかのように、さらに過ぎようとすると)

女 ああ、つれないことを。さっと一雨降る村雨の雨宿りに、同じ木の陰に立ち寄るのも、同じ川の水を汲むのも前世からの約束。ここで二人が出会い、こうして共に飲もうと酒を勧めるのも、前世からの約束。なのに、どうして見捨てて通り過ぎようとなさるのですか。

 (こういって女は維茂に近づき、維茂は酒宴に加わる)

地謡 恥ずかしい振舞ながらも、(たもと)にすがって留める女。さすがに木石ではない人間の身の維茂。

維茂は「ここは露の多い山路、その露に縁のある菊の酒なら、飲むのになんの差し支えがあろうぞ」と心弱くも女達の酒宴に立ちもどる。
いやまことに、中国の慧遠(えおん)が酒の友のために禁を破って虎渓(こけい)の石橋を渡ってしまったというその昔も、親しい友の気持をうち捨てかねて、心のこもる盃を受けた深い契りの先例であるとか。維茂が女の杯を受けるのももっともなこと。「林間に酒を(あたた)めて紅葉を()く」というが、まことに面白いことで、所は岩の上の青い苔筵(こけむしろ)、そこに袖を(かた)()くように紅葉が落ち敷いている。その紅葉のように紅の色の深い女の顔ばせに、維茂は「この世の人とも思わない」と、ただ胸が騒ぐばかりである。
このような美しい女性がいなくても、乱れる時は酒の席、酒をほんの少しであっても受けまいと思うであろうが、盃に向かうと気が変わってしまうのが人の心というもの。
それで仏の(いまし)められたことはさまざまに多いのだが、とりわけ飲酒(おんじゆ)の戒を破ったなら、邪淫(じゃいん)妄語(もうご)の二つの戒めも、もろともに乱れるという。その乱れた心に映る二人自身の花をかざした姿。このような姿は世にも(たぐい)がない嵐山の桜のよう。二人以外の他人にはどう見えるであろうか。

女 どう見えようと、ままよ、しかたがないこと、思えばこれとても、前世からの契りの浅くないゆえ。

地謡 前世よりの契りの浅くはない思いの深さがあらわれて、このような折にも道のほとりの、草葉に置く露のようにはかない恨み言、頼む行く末を契るのも無遠慮なことながら、相手の心は分からないことと、二人共に立ち迷っている様子である。

こうして時刻も移り行き、雲の中に嵐の音がするようだ。嵐に散るのだろうか真拆(まさき)(まずら)は。その名も葛城(かつらぎ)の神が約束した夜になっても、月の下で盃をさしかわし、女のさし引いて舞う袖の袂は雪を廻らすかのようである。

 「堪へず紅葉、青苔(せいたい)の地」

地謡 「堪へず紅葉、青苔の地」(ものさびしく感に堪えないのは紅葉が、青い苔の上に散り敷くさま)、さらにまた涼しい風が立つ。やがて暮れてゆく空に、雨が打ちそそぐ夜嵐のぞっとするほどのものさびしさ。そのものさびしい山陰で、月の出を待つ間のうたた寝に、片敷く袖も露にしっとり深く濡れている。

 (酔い伏した維茂を見ながら)

女 深い夢を()ましなさるなよ、深い夢を覚ましなさるなよ。

 (女たちは退場する。場所は都の八幡宮の設定で、武内(たけうち)の神が登場する)

武内の神 ここに控える者は、八幡(やわた)八幡宮(はちまんぐう)にお仕えする武内と申す末社の(しん)でございます。ただいまこれへ登場したのは余の儀ではありません。そもそも、()()の将軍平の維茂が信濃の国の戸隠山へ分け入りなされたその訳は、戸隠山に鬼神が住んでいて、国土の民を悩まので、朝廷は維茂へ勅使を立てられ、戸隠山の鬼神を平げろとの御事なので、「畏まりました」とお受けを申し、ただちに戸隠山へ分け入りなされたが、もとより大剛の人なので、鬼神を退治せねばならない事を気にもしないで、道すがら山々の紅葉を眺め、鹿などを狩り、悠々(ゆうゆう)として戸隠山に分け入りなさると、鬼神ははやくもそのことを聞き、何とかして(だま)し、維茂の命を取ろうとして、どう見ても若い女と化け、巌のたいそうに面白い所に幕を打ら廻し、屏風を立て、酒宴の様子をととのえ、維茂を待っていると、騙されるとは夢にも知らず、維茂その様子を見て、どのような人が酒宴をしているのかと使を立てられたので、ただ「ある御方」とだけ返事をする。維茂そのことを聞き、「よしよし、どのような人であれ、上臈の道のほとりの紅葉狩に、いずれにせよ馬に乗ったまま通り過ぎることはできないと、馬から下りてそうっと通られるのを、幕の内から女が出で、「一つおあがりになって」といって袖を控える。見れば美しい女である。騙すとは夢にも知らず、酒を飲みつづけるうちに、存分に食べて酔い、前後も知らず寝ているところを、時刻は過ぎて正体を現した鬼神どもが維茂の命を取ろうとするのを、八幡(やわた)八幡宮(はちまんぐう)はよく御存知あって、この末社に、急ぎ駆けつけて危機を維茂に告げ知らせよとの御命令により、ただちに戸隠山へ参ります。急いで参いろうと思います。

(武内の神は都から戸隠山に着く)

武内の神 いや神通力を得たので、一瞬にして戸隠山に着いた。さて、あの維茂は、どこにおいでになるのであろうか。
おお、あそこにおいでになる。ああ、うれしいことに、まだ無事だ。急いで八幡宮の神勅の通り申し渡そう。

 (眠っている維茂に向かって)

どうだ維茂、たしかにお聞きなされ。最前、御身に酒を勧めた女は、人間ではなく、この山に住む鬼神どもであるが、御身をたぶらかし、命を取ろうとするのを、かたじけなくも八幡宮はよく御存知あって、急ぎこの末社に駆けつけ、危機を告げ知らせよとの神勅を受け、武内はここに参ったのだ。それ、八幡宮がこの御佩刀(おんばかせ)を下されるから、これでやすやすと鬼神を平らげ、急ぎ上洛するがよい。

 (維茂の前に太刀を置く)

おやおや、正体もない様だなあ。(足拍子を打って)はやく目を覚まされなされ。目を覚まされなされ。
(ここで武内の神が、維茂が戸隠山に鬼神退治に来たことを説明しているが、この箇所は間狂言といって、謡曲の本体ではなく、後に適宜付け加えたものといわれている。したがって、勅命による鬼神退治はひとつの解釈で、謡曲の中で勅命による鬼神退治が語られているとはいいがたい点がある)

 (武内の神、退場。維茂は目を覚ます)

維茂 ああ、あさましいことだ。われながら、心をまどわす酒に酔い、まどろむうちに、あらたかな八幡宮の夢のお告げだ。

 (維茂、太刀を手に取る)

地謡 目を覚ませば枕もとに稲妻が乱れ飛び、天地に雷鳴が響きわたり、風は吹き落ちて、あたりの見当もつかない山の中で、維茂も心細いことよ、恐ろしいことよ。

 (鬼神の正体を現した女が登場)

地謡 不思議なことだ、これまで酒宴に興じていた女が、不思議なことだ、これまで酒宴に興じていた女が、それぞれ化物の姿をあらわし、あるいは岩の上で火炎を放ち、または空中に炎を降らし、三ヶ月間燃え続けた中国の咸陽宮(かんようきゅう)の煙もこれほどのものかと思われる煙の中に、七尺の屏風以上になお高い、一丈の鬼神があらわれ、その角は鹿のように枝分かれし、眼は日や月のように輝き、とても正面から見ることもできない。

この時、維茂、いささかも、騒ぐことなく、
「どうか八幡大菩薩、守りたまえ」と、
心で祈り、剣を抜いて、待ちかまえていると、()()微塵(みじん)にしようと、鬼神が飛びかかる。維茂は飛び違いざまにむんずと組んで、鬼神の真中を刺し通す。鬼神は維茂の頭をつかんで、高く飛びあがろうとする。維茂がこれを斬り払えば、鬼神は剣に恐れて、岩の上に登って逃げる。維茂、これを引きずり下ろして刺し通し、たちまちの内に鬼神を、退治されたのである。

維茂の威勢たるや、まことに恐ろしいものであった。

 

吉備の大臣(おとど)九生(くしょう)大王(だいおう)                          目次へ

戸隠の旧別当家の久山家に江戸時代初期と思われる絵巻が伝わっています。主人公の名前は維茂とは異なっていますが、これも謡曲の『紅葉狩』を物語化して絵巻に仕立てたものです。 

『とがくし山』 江戸初期(大島由起夫「『戸隠絵巻』考」、及び、島津久基「紅葉狩(戸隠伝説)」を参照して口語訳)

それ、天下泰平に治まるには、仏法をもって政道の中心となし、五常を守り、信心を深くすれば、どうして国民が平穏無事でないことがあろうか。
 ここに神武天皇以来、四十四代に当たらせ給う(みかど)を、元正天皇(げんしょうてんのう)と申し上げる。この帝が中国の古代、三皇五帝の跡を慕い、信心をもっぱらにし、賢臣の(いさめ)を用い、佞臣(ねいしん)を退け、善に近づき悪を離れ給うたからであろうか、国は豊かに治まり、民は安穏(あんのん)に暮らしていた。このため国土の人民、波をへだてた遠国(えんごく)に至る迄、帝に靡かない草木も無かったのである。
 されば、治まる御代の(しるし)であろうか、美濃の国から不思議な事を奏聞(そうもん)してきた。本栖(もとす)(ごほり)に泉が湧き出て、飲む人は、白髪が変じて黒くなり、老いた者は若やぎ、若い者は何時になっても年をとらないとのことである。
 このことを土地の者が都に申し上げたところ、殿上人(てんじょうびと)も奇異の思いをなし、急ぎ帝に申し上げると、「このような不思議な事こそいままではなかった。急いで勅使を(つか)わし、見て参れ」とのご命令。
 すぐに勅使を遣わし、事の様子を御覧になると、まこと世にもまれな不思議な有様であった。辺りの里人を近づけて、勅使が事の仔細(しさい)を尋ねると、里人が答えて申し上げることには、
「さようでございます。この泉が湧き出ることは、昔もそうだったのか、またこの頃湧き出たのか、それは存知ませんが、私は年寄りの父を持って居ります。その父を養うために、山に入っては薪を切り、これを生活の糧にして居りましたが、ある時、山道の疲れにこの滝川のほとりに休み、なんとなくこの水を手に汲んで飲みましたところ、疲れもやみ、心も若やぎました。急ぎ家に運んで、父にこれを与えたところ、年取った父もこの水を飲んでから、何時の間にか白髪も変じて黒くなり、足も軽く、夜の寝醒めもおっくうがらず、朝寝であったのも起き易くなり、疲れることもなくなりました。それでこの水を朝夕に汲んで飲んでいましたら、何時しか自分の身も年寄る事がありません。こういう訳で、飲み始めた人々も、この不思議を知ったのです」。
 勅使も不思議に思って、この滝壷に立ち寄り、よくよく泉の出る所を見極めて、すぐにそのまま都に帰り、この由をありのままに奏聞したのだった。帝も大いに感心なさり、すぐに年号を養老(ようろう)と改められた。まことに、聖代の御代には、このような瑞相(ずいそう)がある事は、(かん)(ちょう)にもその例が多い。帝もいよいよ(まつりこと)を怠ることなく、君も臣も安穏(あんのん)に過されたのだった。

こうして年月が過ぎていくうちに、また人々の(わずら)うことが出てきた。
 というのは、東山道(とうさんどう)の信濃の国戸隠山に不思議な変化(へんげ)の物が住んでいて、日が暮れれば往き来の人は稀であった。初めのうちはそんなものであったが、後には夜となく昼となく、鬼神が姿を現わし、麓へ出てきては、往き来の人を苦しめる事、甚だしいものである。これにともない関東からの貢物も順調ではない。都から(あつま)へ下る事もできない。近くの土地の人々はこの鬼神に襲われ、親を殺されて子が残って歎く者もあり、あるいは夫を失って妻の歎く者もあり、兄を殺され弟が残されて憂うる者もある。どの家々にも泣き叫ぶ声は、叫喚(きょうかん)地獄(じごく)の苦しみも、これには(まさ)るまいと思われた。人々はむなしく田畑も耕さず、昼でも夜でも家の戸を閉じて籠もって居る事、まことに天下の(わずら)いであるといって、信濃の国の人々が皆して集って相談したことには、
「昔もこのような事があった。このまゝにしておけば、土地の人々はことごとく鬼神に滅ぼされてしまう。たまたま我々のような者が残って留まっていても、このように戸を閉じて家に籠もっていては、田を耕す事もできない。そうなれば将来も不安である。こうなったからにはこの事を都へ訴え、なんとか信濃の国が平安であるようにしようではないか」。
「それはもっともだ」ということで、我こそと思う者、数十人が連れだって、都を指して上ったのである。
 かくて都に着いたので、事の仔細を宮中に奏聞したところ、帝はたいそう驚かれて、その十人の者を召され、尋ねさせられた。事の始終を詳しく申し上げると、帝はそれをお聞きになって、殿上人を近づけ、「どうしたらよかろう」と仰せになる。中にも堀川の内大臣が進み出でて申し上げるには、
「昔もこうした例はあります。天智天皇の御代にも、藤原の千方(ちかた)と云う逆臣も、鬼をことごとく従え、召し使いましたけれども、宣旨を頂いて攻めましたので、たちまち滅びた(ためし)があります。今でもそうです。急ぎ武士に命じられて退治すれば、何の問題がありましょうか」。
 帝は、もっともと思われて、「そうであるならば、誰に命じたらよいであろうか」と仰せになる。
 内大臣は「吉備(きび)大臣(おとど)という者は、文武二道の人ですから、これに命じられるのがよろしいでしょう」と申し上げる。
 帝は、「それならば大臣(おとど)を召しだせ」と仰せになるので、急ぎ吉備の大臣に勅使を下された。
 大臣は驚き、すぐに參内なされた。帝が仰せになるには、「信濃の国戸隠山に鬼神が住んで、国中の人々を悩まし、往き来の人を殺す事は怪しからんことである。お前は急いで信濃の国に下って退治せよ」との勅諚(ちょくじょう)である。
 大臣は勅諚を(うけたまわ)り、「私のような者が出かけていっても、退治することは難しいでしょう。これは天下に名を得た人にご命令下さい」と申し上げる。しかし、()(ぎょう)・殿上人がいわれるには、
「お前の言うことももっともであるが、人の多いその中で、お前が選ばれたことこそ面目(めんぼく)である。その上このような帝のお言葉は綸言(りんげん)汗の如くであるから、少しも時を移さず、出かけていかねばならぬ」。
 大臣はこれをお聞きして、
「重ねて申しあげれば勅諚に背くもので、命を惜しむに似ています。そういうことならば、出かけましょう」
といって、帝の前を引き下がって宿所に帰り、身内の郎党に蘇我(そが)河麿(かわまる)()貞雄(さだお)という大剛(たいごう)の者がいたが、彼等二人を御前に召して、
「なんとお前達、よく聞け。この頃、信濃の国戸隠山に鬼神が住んで、人々を悩まし往き来の人が困窮していることを国の者が申し出た。そのような時に、我にその鬼神を退治せよとの勅諚が下ったのは、家の面目、末代までの(ほま)れである。明日にも早く信濃の国へ下ることになる。(なんじ)()二人、供をせよ」という。
 二人の者は承り、
「これはたいそうな大事だ。人も多いその中に、只今ご主人にこの勅諚を下される事、家の面目は何事もこれにしくはない。たとえ神通力をもった鬼神であっても、目にさえ見えれば、どうして滅ばさないでおかれようか。その上、勅諚であるからいよいよ頼もしく思われる」といって喜ぶ事、限り無かった。
 大臣(おとど)がおっしゃるには、
「お前達がいうように、勅諚を持って行くならば、少しも心配することはない。とはいいながら、神仏を頼むべきである。我は、この年月、長谷の観音を信じてきた。参籠したくは思うけれども、大事の宣旨なれば早く出かけよう」といって、長谷の観音へは使者を送り、自身は、養老二年九月中旬に、河麿(かわまる)貞雄(さだを)を大将として、その勢五十余騎を引き連れ、信濃の国の三人の者に案内をさせ、都を立ち出で大津の浦に着かれたのだった。
 瀬田(せた)の橋を渡り、野路(のじ)篠原(しのはら)を過ぎ、夜を日に継いで急ぎ、昔から有名な信濃の国に着いた。三人の者共は、大臣一行を、とある民家に休ませ、先ず旅の休息をとっていただく。
 大臣は、「夜が明けたならばあの戸隠山へ分け入ろう」といって、かの三人の者を呼んで、山の様子を尋ねられた。三人の者は、
「さようでございます。あの山というのは、越中の立山、そして加賀の白山へと続きますが、険しい事はなかなかのもので、鳥でなくては通いようもありません。老木が茂っていて月や日の光さえ明らかではなく、木の葉が積っていて道も無いので、たまたま往き来する人も帰り道が分かりません。目を(さえぎ)るものは空を飛ぶ翼、耳に聞こえるものは峯の嵐と谷の水音、これ等の外は音のするものもありません」という。
 大臣はこれを聞き、「いずれにせよ、夜が明けたらあの山へ分け入り、山の様子を見よう。そして、鬼神が我等を騙そうと出てきたときに、こちらの思い通りに退治しよう」とおっしゃって、この夜はそこに泊まられた。
 そうこうするうちに、山の端が白み、横雲が棚引き、日の光もしだいに差してきたので、大臣は、「人が多くては思うようにならない」といって、「河麿(かわまる)貞雄(さだを)、二人だけで供をしろ。残りの者共は皆麓にいろ。人が多く行けば鬼神が怖れて出てこないぞ。その用意をしろ」と命じる。
 大臣は真新しく照り輝く緋縅(ひおどし)(よろい)、赤地の錦の直垂(ひたたれ)を着け、二尺八寸の太刀を()き、上に薄衣(うすぎぬ)を一つ打ちかけて、先に進んで出ていく。蘇我の河麿も萌葱(もえぎ)絲絨(いとおどし)の鎧に、褐色(かちん)直垂(ひたたれ)を着し、紀の貞雄は()桜縅(ざくらおどし)の鎧を着て、どちらも薄衣を上にかぶって、戸隠山へ分け入った。
 残りの者共は皆麓の野辺(のべ)に留り、「何ともあれ、討ち洩しなさったならば、ここで捕え(とど)めよう」と皆、牙を噛んで待ちうけることにした。

こうして主従三人は、足に任せて山に分け入った。
 誠に聞くにもまして凄まじく、頃は九月下旬の折なので、峰の木枯吹き(しを)り、木の葉が積って道も無い。山路に雨は無いが霧は深く、日輪の光も稀なので、時刻も分からない。

このように気持ちの悪い険しい所を過ぎて、少しおだやかな所に出て、とある木陰に三人は立寄って息をついた。
 大臣は、
「これ程まで分け入り、早くも夕日は西に移ったが、眼に見えるものはなにもない。てっきりこれは宣旨に(おそ)れたか、又は観音の仏力(ぶつりき)で、吾等が威勢に恐れたか、不思議なことだ」とおっしゃる。
 二人の者はこれを聞いて、
「まこと、常は里までも下りて人の命を奪う奴めが、このような所まで我等がやって来たのに害を為さぬのは、てっきり宣旨に畏れたか、ご主人の威勢に恐れたからであろう。いずれにせよ、この山に何年いようとも、鬼神の姿を見ずには山を下りられようか」と申しあげた。
 大臣はこれを聞かれて、
「よくぞ言った、俺もそれは心得ている。この山で暮すことになっても、鬼神の姿を見ずには二度と故郷へは帰るまい」といって、腰につけた乾飯(かれいい)など取り出して、飢をしのいでいらっしゃった。
 そうしていると、峰の方に人の声が聞えたので、大臣は不思議に思って、「これこそ例の鬼神であろう。行ってみよう」とおっしゃるので、また遠くまで分け入り登っていくと、美しい女房が二人、涙を流していた。
 大臣が「これこそかの変化(へんけ)の者であろう。我々を騙そうと、女となって出てきたのだ。あやつ等を連れて来い」とおっしゃるので、「承知しました」と申し上げて、河麿(かわまる)がするすると立ち寄ると、女はたいそう恥かしげに木陰へ隠れた。
 河麿が「お前達は何者だ。なぜこの人も稀な山に住んでいるのか、怪しいぞ」というと、女房は、「私たちはこの山に住む者ではありません。麓の者です」と答える。河麿はこれを聞きて、「それならいいのだが」といって、急ぎ帰って大臣の所に行く。
 大臣は御覧になって、「おいおい、お前達よく聞け。この山に鬼神の住むところがあると聞いている。何処(どこ)であるか教えよ」とおっしゃる。
 女房は涙を流して、
「さようでございます、私どもは存じません。この峯の向こうに気高い(じょうろう)が大勢で酒盛していらっしゃいます。この人々こそよくよく知っていらっしゃるでしょう。私たちは鬼神の住んでいる所へは入ったことがありません。酒盛りの所へ行って尋ねてください」という。
 大臣はともかくもこの女房を連れて、また峯を遥々(はるばる)と越えて行くと、思った通り気高い女房が六、七人、幕を打ち廻し屏風を立てて、酒宴の最中と思われた。大臣が立寄ると、その女房達は恥かしげな様子をして、ここの木の陰、あちらの岩の下へ隠れる。
 大臣(おとど)が、
「どうされましたか、皆様方。私は怪しい者ではありません。どうしてお隠れになりますか。早く出て来て下さい。」とおっしゃれば、女房達は恥かしそうに出てきて、
「御姿をお見受けしますに都の人と思われます。私たちはこの山に住む者ではありませんが、訳あってこのような深山(みやま)の奥に来て、誰にも分からないだろうと心を許して遊んでいましたのに、みなさまのような人に見られたのは恥ずかしいことです」と顔を伏せる。
 大臣は御覧になって、
「どうして恥じられることがありましょうか。一樹の陰の宿りにも、他生(たしょう)の縁と聞いております。このような時に、道端の草葉の露のようなはかない言葉を交すのも、この世ならぬ前世からの縁です。我等は都の者で(あずま)の方に下ったのですが、道に迷い、この山へ分け入ってしまいました。道を教へて下さい」と尋ねる。
 女房これを聞き、
「都の人と聞けば懐かしく思われます。ならばこちらへおいで下さい。道をお教えしましょう。とはいうものの、一河の流を汲む酒を、どうしてお見捨てになっていいものでしょうか」と、御袖に縋って酒を勧める。
 やはり情のない岩木ならぬ身であるので、大臣たちは心弱くも立ち寄って、林間に酒を暖め紅葉を()く風情もこのようなものかと思われ、立ち舞う足下に気持ちも迷い、はやくも心を打ち解けなさる。
 大臣が、
「どうか皆様お聞き下さい。本当でしょうか、この山に鬼が住むと聞いていますが。どこにいるか教えて下さい」とおっしゃれば、女房達はこれを聞いて、
「左様で御座います。この山には九生(くしょう)大王(だいおう)と申しまして、その身の(たけ)は一丈余りの鬼がおります。召し使う眷族(けんぞく)に至る迄、みんな相当の者ばかりです。この頃は陸奥(みちのく)の国へ行っております。二、三日は帰らないでしょうから、私たちは留守の間に出て、こうして心を慰めているのです」といって、打ち解け顔にて酒を強いるので、大臣を初め河麿・貞雄、杯を差し受け、差し受け飲むうちに、前後不覚になってしまったようだった。

 大臣たちが側にある岩を枕として、少しまどろんでいると、女房共はこれを見て、「してやったり」と喜び、今迄は女と見えていたのが皆凄じい鬼となり、「急ぎ九生大王にお伝えしよう」といって、鬼の(いはや)へ戻っていった。
 いたましいことに、三人の者たち、まさに危うく見えたのだが、(かたじけな)くも長谷の観音様は、大臣の枕許(まくらもと)に現れ給い、
「どうしたことだ、大臣(おとど)、このような宣旨を承ったのに、大事の敵に気付かず、かような不覚をとろうとするのか。早く起きろ」とおっしゃって、かき消すように姿を消された。
 大臣は夢が醒め、かつぱと起きて御覧になると、辺りにいた女は一人もいない。家来の二人の者も同じ枕に臥している。大臣は声を張り上げ、二人の者を起せば、河麿・貞雄は夢から醒め、かつぱと起き上り、四方をきっと見廻して、「これはどうしたことだ」と言う。大臣は「不思議なことだ。只今の女は皆この山の鬼だぞ。用意しろ」とおっしゃって、上に着ている薄衣(うすきぬ)を脱いで捨て、太刀を抜き持って、三人一ヶ所に立ち集り、大木が一本あったのを楯にして、今や今や、鬼神の現れるのを待ち受ける、その心のうちこそ頼もしいものであった。
 そうこうしているうちにも、例の女たちは皆鬼の形を現して(いはや)に帰り、九生大王の前に出て、
「このように騙したので、大臣たちは前後も知らずに寐ています。急ぎお出になられて、早く餌食(えじき)になさいませ。大王様、如何(いかが)でしょうか」といえば、
 大王たいそう喜び、「よくぞ言った」といって、すぐに(いはや)を立ち出で、眷族共(けんぞくども)を引き連れて、大臣(おとど)殿が酒によって寐ている所に来てみれば、大臣たちはそこにいなかった。
「これはどうしたことだ」と慌て騒ぎ、ここかしこと探せば、三人の人々これを御覧になって、「おう、鬼神が出たぞ、一人も打ち漏らすな」といって、木の陰から現れ出でて大音声をあげていわれる。
「おいこら鬼神、しかと聞け。普天(ふてん)(した)卒土(そっと)(うち)王土(おうど)(あら)ずと云う事無し。それに何だ、汝、王地を犯すのみならず、往き来の人を悩ます、その天罰は(のが)れまい」といって打ちかかれば、鬼共これを見て、
「何、王土を犯すだと、昔はそうだったかもしれないが今はちがう。手並の程を見せてやろう」といって、三人の人々を中に取り囲んで攻めるが、もとより剛なる人々であって、もみあって闘う。
 鬼神は通力を得たもので、悪風を吹かせ火を飛ばせ、谷を()り峯に登り、岩を崩し古木を倒して闘うので、大臣ら三人もかないようがなかった。しかし、帝の威光のあり難いことには、どこからともなく、十七、八の天童が一人飛んで来て、(くろがね)の楯を持って、三人の者の前に立って防いでくれる。大臣はこれを御覧になって、「忝いことだ。さては未だ神仏の擁護も残っているぞ」といって、面もふらず戦うので、さしも飛行自在の鬼共も、たちまちに通力を失なって、皆ことごとく討たれてしまった。
 九生大王はこれを見て大いに腹を立て、「憎き奴らだ。さあ、俺の手並の程を見せてやろう」といって、小高い岩の上に跳び上り、大臣を睨んで立ったのだが、それは身の毛もよだつばかりであった。
 三人の人々がこれを見て、隙間(すきま)も無く斬ってかかれば、鬼神は(かな)わないと思ったのであろうか、大臣目指して、宙を飛んでかかったが、そのまま、むず、と組み合った。あれほどまでも険しい山の中を、上になり下になって転ぶのを、家来の二人はこれを見て、休むことなく斬りに切れば、鬼神の少し弱って見えたのを、そのまま押えて首を掻き落した。と、この首は虚空に飛び上り、口から火焔を吹き出し、三人に吐き懸けたのである。
 どうにもこれには防ぎようもなかった。鎧の袖を頭にかぶり、木陰を求めてあちこち逃げ回っていると、どこから来たのであろうか、鷲・熊鷹の二つが飛んで来て、その舞い上る鬼の首をつづけざまに蹴りつけ、数千丈の深い谷の底へ蹴落せば、首は微塵に砕けてなくなってしまった。
 三人の人々はこれを見て、いよいよ忝いことだと手を合せ伏し拝んだ。
「今はもう、目的の鬼は滅ぼした。心掛かりはない」といって、木陰に立ち寄って少しお休みになっていたが、まもなく日も入ったので、もとより山路に月がなくては道も見えない。「それでは今宵(こよい)はこの山で夜を明そう」といって、木の葉を集めて焚火として、長い夜寒をお明しになる。

 麓に残っていた大勢の者共は、「どうなさったであろうか、心配だ。さあ、お探ししよう」といって、道も見えない険しい山を、あちこち尋ねまわるその心がけは頼もしいものであった。
 こうしてその夜も明けたので、三人の人々は、斬り殺した鬼の首を、二つ持って帰ろうとするが、貞雄が、「今はもう目的の鬼は滅ぼしたので、気にかかる事もない。いっそのことあの鬼の住処(すみか)を見て、故郷の土産話にしよう」と言うので、大臣もそれもそうだと思い、また奥山に分け入って、あちこちと尋ねたけれども、これこそ鬼の住処と思う所もない。
 なお谷を指して下りて行くと、そこに大きなる岩穴(いはあな)があった。立ち寄って見れば、口には石を(たた)んで門とし、奥はどうなっているとも見えない、数千丈の深い谷である。藤の蔓を伝って出入りしたと思われ、(ふじ)(かずら)がたくさんある。入ってみることもないので「さあ帰ろう」とおっしゃれば、二人の人々も「もっとも」といって立ち帰ったのだった。
 谷に下り峯に登るうちに、帰るべき道が分からなくなった。あちこちと迷うけれども、行く先は詰っていて岩石だけである。「どうしよう」と天を仰ぐが、大臣が仰るには、「知らない山路に迷う時は、谷に従って出れば必ず里があると云う。さあ、谷の水をたどって行こう」。そこで流をたどって山を出ようとした。
 こうしているところへ、麓から尋ね入った大勢の者が、あちこちと尋ねかね、声を上げて呼ばわった。
「この(あたり)に吉備の大臣はいらっしゃいますか。蘇我の河麿・紀の貞雄はおりませんか」と声々に呼ばわる声が微かに谷に聞えたのだった。大臣は不思議に思われ、耳を澄ましてお聴きになると、大勢の声である。たしかにこれは麓にいた者共が、探しに来たのだと思い、すぐに谷から答えれば、大勢の者はこの声を聞いて、谷を指して()りてきた。見れば三人の人々が鬼の首を持っていらっしゃる。喜び勇んでそのままお連れし、麓に出たのだった。

 信濃の国の里人は、このことを聞くやいなや、「それにしても有り難いことだ」といって、みんなして出て大臣を拝んだ。大臣はそれからすぐに、「先ず都へ人を上らせよう」といって、御内(みうち)の者の一人を呼び寄せ、「よいか、お前は都へ上り、事の詳しい事情を申し上げよ。私は明日にも上ろう」とおっしゃり、自身はある民家にお入りになり、しばらくお休みになるのだが、大臣の御手柄の程こそ素晴らしいものであった。こうして御使は大臣の命に従い、都を指して上ったのだった。
 一方、都では、大臣が信濃の国へ下られた日から、毎日人を出して、大津・粟津(あわつ)・松本の(へん)(まで)御迎えしていたが、大臣の御使も、程無く瀬田の橋に着いたので、その御迎えに対面した。御使がありの侭に語ったので、御迎えの人々は都へ立ち帰って、このことをしかじかと申し上げる。帝もお聞きになられ、御喜びは限りようもなかった。
「では、迎えを(いだ)せ」とおっしゃるので、殿上人は目出度い事ことだと、我もわれもと迎えに出られる。また大臣の御台所の御方よりも、思い思いにお出になる。都から大津、松本、粟津、瀬田、野路の篠原まで、馬、車、徒歩(かち)、裸足の人々は引きも切らない。都の人々はこれを聞き、「さあ、末代の物語に見物しよう」といって見物に出たのだが、逢坂(おうさか)(あたり)桟敷(さじき)をしつらえそれが並んでいる。
 一方、大臣は「少しでも早く上ろう」と仰って、鬼の首を持たせて、次の日、信濃の国をお出になれば、国中の人々は、「それにしても有り難いことだ」といって、皆して大臣をお送りする。まことに華々(はなばな)しいご様子であった。
 かくして大臣は近江の国、安川で御迎の人にお会いなされ、みんな馬から下りて挨拶があった。そして信濃の国の人々は、大臣に御暇を申しあげて本国に帰り、喜び合ったことはこの上ないことであった。

大臣はたいそうな様子で都にお入りになり、道々の御迎えにはそれぞれ挨拶があって宿所に入ると、「そのまま參内(さんだい)せよ」との命令である。大臣は河麿・貞雄に二つの鬼の首を持たせ、帝へ參内なさると、内よりの宜旨には、「この度の忠孝は、まったくもってたとえようもない。近くに参って戸隠山の物語などせよ」とのことなので、「恐れ多いことです」といって御簾(みす)の近くに寄って、一部始終の事、女房に酒を無理強いされた事、鬼の首が宙に飛び回った事、住処(すみか)を尋ねた事、道に迷った事、くわしく申し上げれば、帝も臣下の者も各々驚き感心していらっしゃる。
「まことに並ぶもののない手柄である」といって、ただちに、大臣には信濃国を下され、その上御剣(ごけん)、色々の巻物など取り添えて賜った。また河麿・貞雄の二人を、かたじけなくも少将になされる。大臣は「あり難いことだ」と、帝の前を退き宿所にお帰りになったのである。

 大臣は、「この度の忠孝はひとえに長谷の観音のお守りがあってのことではなかろうか。さっそく参籠しよう」とおっしゃって、二人の少将を引き連れて、観音に参詣し、三十三度の礼拝を奉り、それから堂塔を一宇も残らず建立した。八十八間の廻廊、四十四間の廊下、仏前の道具をすべて金銀で磨き立て調え、これらは末世の今になってもそのままで、世にも珍しいことである。
 さて大臣は急いで戻ると、二人の少将を近付け、「お前達のこの度の忠孝は数える暇さえない。その恩賞に」といって、信濃の国の総政所(そうまんどころ)に任命された。二人の者は「かたじけないことです」といって御前を下がって、信濃の国に下った。国中の人々はこれを聞いて、「この国が無事穏やかであるのも、ひとえにこの人々のお陰である」といって、色々の果物、捧げ物を持ち、少将殿の下に参上した。二人の少将もお出になり、皆々に対面しておっしゃるには、
「この度この国の鬼神を従えた事、これも一つは帝のお陰、または神仏の力である。まったくもって人間の力だけでできることではない。けれども勅諚を頂いたからであろうか、思いどおりに鬼神は滅びたことだ。方々も、勅諚とあるならば、かならず畏れはばかりなされよ。こうした変化の物までも勅諚の前には滅びるものであるぞ」といろいろの物語をすれば、国の人々はそれを聞き、「まことに畏れても畏るべきは帝のお陰である」と、皆々御暇を賜り、自分の家に帰ったのだった。
 さてその(のち)二人の少将は、思いのままに家を構えて、栄華に栄えた。こうしたことで大臣は信濃の国へ下りても益無しということで、都に住まわれたが、まことに大層なことであった。

帝はその二つの鬼の首を御覧になって、いかがしようかと思われたが、「このような物は末代迄も語り伝えさせよう」ということで、七條河原に獄門に懸けて曝されたのだった。「誰も彼も帝を敬まい申し上げよ」と、見聞く人々も勅諚を畏れ申し上げれば、いよいよ帝の威勢目出度く、靡かぬ処もないのであった。

平維茂と鬼女紅葉                          目次へ

謡曲『紅葉狩』は浄瑠璃となり草双紙となり、さまざまに脚色されていきますが、これに滝沢(たきざわ)()(きん)の『傾城(けいせい)水滸伝(すいこでん)』を加味して明治十九年に出版されたのが『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之伝』です。随分と人気のあった物語のようで明治三十六年にも再刊されています。現在伝わる鬼女紅葉伝説はこれに現代の私たちの思いを反映させた新しい伝承といっていいでしょう。

北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之伝全』 明治十九年(国会図書館蔵本より要約)

積悪(せきあく)の家には余殃(よわう)あり」とは儒教の(いまし)めであり、「善悪の応報は影の形に従うがごとし」とは仏教の教えである。どうして悪事を盛んに行って長く無事でいられようか。我が国の天智天皇の御代の逆賊藤原千方(ふじわらちかた)以来、大江山の酒顛(しゅてん)童子(どうじ)鈴鹿山(すずかやま)鈴鹿(すずか)御前(ごぜん)宇治(うじ)(ばし)の鬼女・(はし)(ひめ)など、どれも怪しげな術を用いて世を悩ませたことは人々の知る所であるが、信濃国戸隠山に籠った鬼女紅葉(もみじ)というものも、またこれと同じように()しき術を行って人々を悩し、その悪事の数々は隠しようもなく、ついに処罰を受けたのである。世間に紅葉についての伝説はあれこれと伝えられていて、より確かな根拠もないけれども、現在、信濃国で実際にその出来事を伝える正しい説を編集し、出版して幼い者に善を行うことを教える役に立てたい。
    明治十九年六月     纂輯(さんしゅう)(しゃ)(しるす)

戸隠山鬼女紅葉退治之伝
          纂輯人 斉藤一柏
       同   関 依川

清和天皇の御代、(ばん)善男(よしを)という者が陰謀を企だて、都の(おう)天門(てんもん)に放火して伊豆へ流されたことがあった。その後、大赦(たいしゃ)があってその子孫の者が延喜(えんぎ)の御代の末に奥州会津に流れていって名を(ばん)笹丸(さゝまる)といい、妻を(きく)()という。子がない二人はさまざまな神仏に授かるように祈ったが効果もなく、人に勧められ第六天の魔王に祈ったところ、承平(しょうへい)七年の秋に女の子を授かり呉葉(くれは)と名づけた。

呉葉が利発なことは大人も及ばず、読み書き、算用、琴三味線、和歌の道までも優れて育ち、十五、六歳になる頃にはその美しさに惹かれて言い寄る者も多く、会津の里に近い村の河P(かわせ)源右(げん)衛門(えもん)の一子(げん)(きち)は呉葉の美貌に心を迷わせ、恋文を送ったがいつも突き返されていた。親にも言えぬ源吉は胸を焦がしてうつと日を送るうちに身体は痩せ衰え、病の床につくようになれば、両親は驚き、薬だ、針だ、灸だと騒ぎ、神社仏閣にも祈ったが効果はない。
 この源右衛門の家に代々仕える勝丞(かつじよう)千代平(ちよへい)は、或る日、病に伏す源吉を訪ね、病気の原因が(こい)(わずら)いだと確かめると、親の源右衛門夫婦に報告。事情を知った夫婦は二人に仲立ちを頼み、当座の用に百両を渡す。
 翌朝、二人は笹丸方へ行き、近くの村の金持ちの家といって呉葉の嫁入り話を持ちかけるのだが、呉葉の美貌と才知を頼りに都に上り、身分ある者へ嫁がせたいと思っていた親の笹丸は二人の申し入れをあっさりと断わる。断られた千代平、一昨年笹丸に貸した十五両の返済を申し入れ、出来なければ呉葉を主家源右衛門の家に奉公に出すようにと迫る。迫られた笹丸は、貧苦に迫り独り娘を取られたと世上に評判立つならば生きて甲斐なし、とはいえ返す金はなし、申し訳に切腹仕る、と騒ぎ出す始末。それを妻の菊世と娘の呉葉が止め、勝丞と千代平はこの騒ぎにあきれ果てて、いったんは引き下がるのであった。
 さて、笹丸は勝丞と千代平が帰ったあと、声をひそめて妻子に向かい、「呉葉をとられては都に出て高貴な者に嫁がせる夢はついえる。こうなったらこの家を立ち退いて都を指して逃げるしかない」と打ち明ける。これを聞いた呉葉は「私を守る神様に頼みましょう」といって庭に出ると、天を仰いで何か秘文を唱えた。と、不思議なことに呉葉そっくりの娘が現れ「これを身代りに嫁入らせ結納(ゆいのう)(きん)を受け取り、それを持って都へ上りましょう」と呉葉。「第六天の申し子だからであろうか、不思議なことだ」と父の笹丸。こうして親子三人で密議を凝らすのであった。
 一方、勝丞と千代平は、笹丸の腹切り騒ぎに驚いたが、返す金が出来る訳はない、金の代りに娘を受け取って源右衛門殿へ茶の間奉公させようと、翌日出かけていけば、案に相違して腹切り騒ぎを謝る笹丸。(くるわ)から借りたお金さへなんとかなれば「呉葉が身の上は御両人におまかせいたします」と菊世。当人の呉葉も承知というので、笹丸親子の陰謀を知らない千代平は、「では結納酒代として金百両をお渡しいたします。これで廓の借財を済していただき、今より同道して呉葉さんには源吉殿の御介抱を・・・」と、身代わりの呉葉を駕籠に乗せて、源右衛門宅を指して急ぎ行く。見送った笹丸夫婦と呉葉は、日暮れを待つと月の曇りを幸いに都を指して逃げて行った。天暦(てんれき)六年五月半ばのことである。
 呉葉を迎えて源吉の病はすぐに回復。源右衛門夫婦以下、家中の者は呉葉を生き神様と敬っていたが、ある日、源吉が見ている前で、「(くも)の糸を風が払う前に私が払ってあげましょう」と、(ほうき)を持って庭に下り立つ呉葉。と、払った糸が布一反ほどの雲となり、呉葉はこれに打ち乗り空へと上っていく。一同大騒ぎして、千代平が会津へ駆けつけてみれば笹丸の家は戸を閉ざしていた。
 
 都に上った笹丸は名を伍輔(ごすけ)と、菊世は花田(はなだ)、呉葉は紅葉(もみじ)と改め、宿の主人の好意で四條通りの町はずれに小店(こだな)を開き、髪道具やはき物を商い、紅葉は弟子を集めて琴の指南。頃は天暦(てんりゃく)七年の水無月(みなづき)の末、四條河原の夜涼みに出た(みなもと)経基公(つねもとこう)御台所(みだいどころ)は紅葉の弾く琴の音に心をひかれ、腰元として館に呼び寄せる。人知れずあやしき術を具えていた紅葉は御台所の心を読み、すぐに(つぼね)に住み下女をも召し使う身となったのであった。
 紅葉の才気と琴の技はいつしかに経基公(つねもとこう)の御耳に入り、ある日の御宴(ぎよえん)に琴一曲を調べることとなる。心に例の第六天を念じつゝ琴を弾じれば、経基公は紅葉の美しさに心を動かす。これぞ紅葉が邪術(じやじゆつ)をもって経基公の御心をあやつりはじめた始めであった。
 かくて経基公の寵愛を受けることとなった紅葉はいつしか御種を宿し、「多くの侍にかしずかれ、父の伍輔も武士となり、身をも家をも起したいものだ」と悪念を起す。それには目障(めざわ)りな御台所、世になきものに、と怪しき術で御台所の調伏(ちょうぶく)にかかれば、病に伏した御台所、夜の(うし)(みつ)つ時になれば鬼が現れて苦しめるという。
 経基公の側用人三谷(みたに)隼人(はやと)の妻の百手(もゝで)によれば、紅葉は御台所の看病に付きっきり。が、一方、局では同じ紅葉が怪しげに祈る姿が見られる。この一身両体を怪しんだ側用人の三谷隼人は妻の弟の浅田伝蔵(あさだでんぞう)を比叡の山に送り、大行(だいぎょう)(まん)の律師から加持符(かじふ)をいただく。その加持符を御台所を看病する紅葉の(えり)に付けようとすると不思議なことに紅葉の姿は消え失せる。一方、浅田伝蔵が局で祈る紅葉を捕らえてみればこれこそ真身の紅葉。かくて、紅葉の陰謀露見、つまりは寵愛した自分の過ちと知った経基公は、「我が過を隠さんため信濃国の戸隠の山の深みに追ひやれ」と親子を追放したのである。天暦(てんれき)十年九月の末のことと伝わる。

戸隠の山奥に捨てられた紅葉は、経基の子を身ごもったために御台所に罪を着せられて流罪、伍輔と花田は譜代(ふだい)の家来、腹に宿った子が生まれればいずれは都に帰る身、このように土地の者を欺き、秘文を唱えて加持祈祷、病を治すので生き神様と評判され、慕う者が岩屋に家を造れば腹の子はやすやすと出産、珠を欺く男子であったので父経基の経の字を取りて経若丸(つねわかまる)と名付けた。
 一方、悪事に傾く心の紅葉は夜な夜な男姿になると離れた土地の富家を襲って金銀を奪っていた。これを知ったあたりの強盗で、鬼武(おにたけ)熊武(くまたけ)鷺王(さぎおう)伊賀瀬(いがぜ)と名乗る四人の荒くれ者、平の将門(まさかど)の家来の末を名乗り、紅葉の力を試しに乗り込むが氷の玉、火の玉を降らし、()(おうぎ)を用いて水を出す紅葉の幻術の前にあっさりと手下となるしかない。四人は都の経基から送られた経若丸の家来といって里人をだまし続け、さらには鬼のおまん(、、、)という七十人力の二十三、四の女も仲間に加わることとなった。
 さて、父の伍輔は紅葉の悪行を憂いて諌めはするが、魔王を祈ってもうけた紅葉、悪縁悪果を結ぶとはこのことで悪行の止むことはなく、伍輔はついに病に倒れてこの世を辞すこととなる。かくて鬼武らの四人も遠い村里から若い女をさらって妻にとなし酒色にふければ、手下もこれをまねて(そむ)く者を斬り殺す。紅葉はこの生血を取らせて酒となし肉をあぶりて喰らうのであったが、いつしか戸隠の岩屋の紅葉は鬼神ぞと世間に洩れる噂の数々、国守に知られることもあろうかと槍や長刀(なぎなた)、太刀などを集めることになるが、まさしく国守の知るところとなる。さらに冷泉帝(れいぜいてい)もこれを聞こし召して(たいら)朝臣(あそん)維茂(これもち)(こう)信濃(しなのの)(かみ)に任じ、山賊紅葉退治が発せられたのは安和(あんわ)二年の七月のことであった。

迎え撃つ鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬らは、、天慶(てんけい)三年に我等が主人将門(まさかど)(わう)を討ち亡ぼし、先祖の長狭(ながざ)鷺沼(さぎぬま)をも討ったは(たいら)定盛(さだもり)繁盛(しげもり)兄弟、寄せ来る維茂はその繁盛の嫡男(ちゃくなん)、これこそ仇討(あだう)ちのよき機会と勇み立つ。紅葉も維茂めが首とって信濃一国を奪い取らんと、守りを固めるのであった。この騒動を見た紅葉の母の花田は、経若丸に自分は祖母だと告げると、「死んで恥をさらすな」と言い残して自害をしてしまう。
 さて、維茂(これもち)は紅葉退治の勅命を蒙むり、譜代の功臣金剛(こんごう)兵衛(ひやうえ)政景(まさかげ)、同太郎(たろう)政秀(まさひで)成田(なりた)()衛門(えもん)長国(ながくに)真菰(まこも)次郎(じろう)河野(こうの)三郎(さぶろう)勝永(かつなが)等総勢二百五十余騎を引き連れ信濃国の出浦(でうら)(塩田)の里に到着。まずは河野三郎と真菰次郎に兵卒百五十余騎を授けて今の水内郡(みのちごほり)笹平村(ささだいらむら)に布陣させた。
 曲り曲がれる山路を登り裾花川にかゝる藤橋を敵の難所と河野と真菰の兵は賊徒を攻めつけるが、火の雨が降り、足元深かく水が押し寄せて敗北。紅葉の幻術である。これを防ぐには(しょく)の孔明が南蛮の幻術を防いだように、武器に不浄のものを塗るとよいということで、藤橋での勝利の宴会をする紅葉らを本陣近くに攻撃するが、不浄のものも効果無く、再び幻術に敗北。この知らせに老臣金剛兵衛の勧めで維茂は、幻術に対抗するには神仏の加護が必要と北向(きたむき)観音(かんのん)に参籠。と、夢に白髪の老僧があらわれて維茂を雲に乗せ、紅葉の陣容を眼下に見せる。さらには降魔(ごうま)の剱を授与。かくて維茂は全軍を戸隠へと向かわせることとなる。
 官兵が一の木戸を破り二の木戸へ迫れば、賊徒の伊賀(いが)()は幻術の助けを求めて紅葉のもとに走る。しかし、術を行おうと壇に登った紅葉は寒気だって壇よりころげ落ち、官兵に破れた賊徒が火水の幻術を求めて次々に駆けつけるが、もはや紅葉の身体は氷の如く冷えるだけであった。こうした様子を見た子供の経若丸は祖母の花田の「恥をさらすな」の言葉を思い出して自害。
 さて、やっと立ちあがった紅葉を、維茂が老僧にいただいた降魔の剱を矢の根にした白羽の矢で射れば、紅葉の右の肩に立つ。紅葉、今はかなわじと本形(ほんぎやう)現らわし鬼神となって宙に舞ひ上り維茂目がけて火炎を吹き出すと、不思議や空中に金色の光り射して鬼女の頭に触れる。鬼女はたまりかねて大地へどつと落ち、「あら口惜(くちおし)や」と維茂目掛けて飛びかゝるを金剛太郎が横から胴腹深く突き通す。突き通された鬼女が太郎の腕を握って引き倒し、足に踏まえるその後から維茂が首をちょうと打つ。その首、宙に舞ひ上りどこともなく消え失せたのであった。
 かくて維茂公は妖賊紅葉退治の次第を都に奏聞(そうもん)。紅葉の首桶を穴の底に埋め離れたところには胴を埋め、後に悪徒が籠らないように砦を壊し、鷲王、熊武を始めとし賊の部類はことごとく死刑。かくて目出たし、目出たし。

鬼のおまん(、、、)は官兵から逃げおおせたが身の上をかえりみれば多くの人を殺し金銀諸具を盗んだ身。捕らわれて憂き目を見るよりは淵にでも身を投げようかと思うのだが、それにつけてもこれまでの悪事を懺悔(ざんげ)して来世での苦しみを軽くしようと、善光寺如来のお堂に忍びこみ夜のまぎれに拝むのであったが、探索迫っておまん(、、、)は山へ逃げ、死に場所を求めても業障(ごうしょう)の重い身であれば死のうとしても死なれない。かくて戸隠の寺にたどり着き、住僧(じゅうそう)寛明(かんめい)に御弟子となることを願う。寛明が三帰五戒(さんきごかい)を授け(かみ)()り落し袈裟(けさ)と衣を与えればおまん(、、、)は歓び三拝九拝。これで死ねると懐剣で喉笛をついて果てたのであった。寛明はおまん(、、、)の髪を箱に入れ仏間で朝な夕なに菩提を弔い、後におまん(、、、)(ぼう)の毛と伝えられ、さらにはおまん(、、、)が女なればおまん(、、、)ぼゝの毛と伝わっている。

維茂公は出浦の里に御帰陣、霊験を蒙った七久里の里に鎮座まします北向厄除観音へ御礼参拝、堂宇伽藍を建立。手負いの諸士を温泉に入浴させれば重傷もすみやかに癒えたとのことであった。この七久里の里を当時別処(別所)といった。

四 長明(ちょうめい)稚児(ちご)宣澄(せんちょう)                          目次へ

戸隠を舞台とした物語を三つ紹介しておきます。

長明(ちょうめい)火定(かじょう)                          目次へ

火定というのは火に焼かれて焼身死することですが、心を統一集中させて、無我の境地に入る入定(にゅじょう)のためです。土定とか水定というものもあります。三善(みよし)為康(ためやす)(一○四九?一一三九)の『拾遺(しゅうい)往生伝(おうじょうでん)』によれば、戸隠の住僧・(しゃく)長明(ちょうめい)永保(えいほう)年中(一○八一?一○八四年)火定したとのことで、戸隠が相当に厳しい修行の地であったことが分かります。中社から奥社に行く男道に公明院がありますが、その庭に長明火定の地があります。 

「拾遺往生伝」 平安時代後期(『日本思想体系』七より)

持経者(じきょうしゃ)長明は、信濃国戸隠山の住僧である。生年二十五にして、言語を断ちて三年、法華経を誦してどれほどの月日がたったであろうか。毎日、誦すること百部である。いまだ昔から横になったことがない。たまたま客に語って言うには、「吾は()(けん)菩薩(ぼさつ)の生まれ変わりである。六道を廻る娑婆(しゃば)世界(せかい)に来て、生れて、身を焼くこと三度である。今回の臨終は、三月十五日と思っている。しかし兜率天(とそつてん)に登るには期限があるという」こういって、二月十八日、遂に身を焼いた。時に永保年中のことである。

考えてみれば、兜率天に(おもむ)く上人は、西方浄土に赴く者を記す書物では扱わない。しかし、喜見菩薩の後身というのだから、随意滅度(ずいいめつど)であろう。それでここに扱う。

『法華経』によれば喜見菩薩は、違い前世で千二百歳までその身を焼いて日月(にちげつ)(じょう)(みょう)(とく)如来(にょらい)を供養し、再びこの如来の下に生まれてこんどは七万二千歳まで両腎(りょうひじ)を焼いて供養したといいます。これで二度目なので、喜見菩薩の生まれ変わりである長明が戸隠で焼身供養の火定をすれば「身を焼くこと三度」となります。往生伝というのは死んですぐに阿弥陀の本願によって浄土に赴く者の伝記ですが、長明は自分の意志で兜率天に赴くので随意滅度というのでしょう。

稚児の塔                          目次へ

自然の中での行者たちの厳しい修行の地である戸隠山も、次第に寺としての体裁を整えていくと、修行だけではなく学問の地ともなっていきます。そこで学んだ機転のきく子供の話が残っています。

「沙石集」 鎌倉時代中期(慶長古活字十二行本より)

小児の忠言の事

信州に昔ある人がいた。京から好きな女を連れて国に戻った。京には言い寄る人が多くいたのだが、その男達から送られてきた手紙がたくさんあった。それを夫に隠して置いたのだが、いろいろと告げ口する者がいた。夫は手紙を探し出して、自分は字も書けず読めもしない、子どもが戸隠の山寺にいるからと、これを呼び寄せて、母の前で読ませた。母は色を失い、心ここにあらぬ様子であった。この子はよく出来た子であって、普通の手紙のように、おだやかな内容のように、みんな読んだので、恋文というのは、たちの悪い告げ口であったと男は思って、夫婦仲はそのままとなった。この絲母はあまりに嬉しくて、かわいい玩具をつけて手紙を子に出した。

信濃なる木曽路に懸かる丸木橋 踏(文)みし時は危うかりしを
(信濃の木曽路に懸かっている丸木橋を渡ろうと踏んだときは本当に危ないことでした→昔の男からの手紙を見たときは、本当にはらはらしました)

この子からの返事には

信濃なる園原(そのはら)にしも宿らねど みな(はは)(母)木と想ふばかりぞ
(信濃の園原に立ち寄った訳ではありませんが、どの木も箒木と思うばかりでした→誰もかも母と思うばかりです)

かの閔子騫(びんしけん)に似ている。梵綱(ほんまう)経にもあっていて感心である。すべての男の人は皆我が父であり、すべての女の人は皆我が母であると説いているのにあった心である。感心な心である。父の家を継いだとかいう。

いろいろと脚色されて後世に伝わっているが、もともとの『沙石集』ではかなりに世相を反映している。おそらくは武士の世の中になり、信州のこの男は無学ながらも地方の有力者であって、都から没落貴族の娘を家の格付けのために娶ったのであろう。二人の間の子を世継ぎにするために以前の妻との間の子は寺に入れられる。そして貴族の娘であった継母にむかし都でつきあいのあった男から手紙が届くのであって、いま現在不倫をしているのではない。だからこそ子供も別のことのような手紙として読むことが出来るのである。父の家を継いだということはおそらく継母が恩を感じてこの子をもり立てたのであろう。閔子騫は春秋時代の儒学者。稚児の塔は公明院と奥社の間にある。

 (せん)(ちょう)と飯縄天狗                           目次へ

戦国時代に戸隠では真言派(当山派)と天台派(本山派)の争いがあったといわれ、現在では天台宗の寺と真言宗の寺の争いのような話に変形されているが、もともとは戸隠の修験道を真言系ととらえるべきか天台系ととらえるべきかの争いで、寺と寺の争いとして伝えられたのではありません。一七二七年に別当となった乗因の『戸隠山大権現縁起』が伝えるところですが、該当箇所の前半は月々の勤行や祭祀は天台修験によるとか、神前に真言八祖の絵像があるが真言も天台も先輩として尊敬しているので真言系である証拠にはならないなどの理屈が書かれています。ここでは物語的な部分を紹介します。なお、飯縄山から飛んでくる宣澄の死霊は、三郎天狗といわれた飯縄権現のイメージです。

 『戸隠山大権現縁起』 十八世紀前半(「続神道大系 神社編 戸隠(一)より)

天台派の宣澄が理を正し、言葉を尽くして説きますが、真言派はもとより愚かで無知であり、法義も解らず身の程も知らず、ただ偉ぶって奢っているだけですので、あいかわらず怒り狂って乱暴ばかりしていて、終に七月九日宣澄法印(ほういん)を殺害してしまいました。それからは宣澄の死霊が(たた)りをして、毎晩のように飯縄山から飛んできます。その形はこれまでの姿のようでいて、眼は日や月のように光り輝き、(くちばし)はとがって熊鷹(くまたか)のよう、左右の脇には肉の翼があり、手足の爪を長くて鷲に似ています。大忿怒(だいふんぬ)の相をして真言派の悪者共を睨みつけるので、「あっ」と(おび)えて苦しみ気絶してしまいます。後には昼間にも現れ、例の真言派の仲間たちを咎めて激しく迫りますので、ついには真言派は皆殺しにされてしまいました。その後は戸隠山は天台派だけとなって、宣澄は天台山伏の守護神となりました。神号を台宗(だいしゅう)鎮護(ちんご)宣澄(せんちょう)大明神(だいみょうじん)といい、墓に鳥居を建て額を掲げて祭所としました。

この話は後に、西光寺という真言派の寺があったが、宣澄の霊に睨まれて炎上したとも伝えられるようになります。怪無山(けなしやま)中腹にいまも宣澄墓といわれるものがあり、中社の宣澄社は里宮にあたります。毎年旧盆の八月十六日には、修験道に深く関連した踊りとしていまでも長野市無形重要文化財の宣澄踊りが行われています。

後書き

ここでは、神話・伝説・民話など世に流布した話を縁起や文芸作品などに仕立てた文書を、説話物語と呼ぶことにしました。縁起や文芸作品などに仕立てた物語ですから、世間に口伝えに何となく流布しているものではありません。作者の名前は分からなくても誰かが何時の時代にか書きとめたもので、縁起、謡曲、浄瑠璃、読み本なども含みます。

信仰の山である戸隠を舞台にして、神さま仏さま、そして鬼などが登場するさまざまな説話物語が書かれてきました。その時期は平安時代の末から始まって現代まで至りますが、下限は明治の初めとしました。昔の人々の考えがより強く反映されていると考えたからです。

わかりやすく口語訳し、言葉を補ったり、言い回しを変え、時に要約もしてありますが、内容の変更はしてありません。

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