現代語で読む戸隠伝承

戸隠に関わる説話や伝承は平安時代の昔からいろいろと語り継がれてきました。その元となった原典のいくつかを現代語訳してみました。長いものは要約もしましたが、勝手な解釈による変更は加えてありません。昔の人の心を味わってみて下さい。

目次
説話伝承物語集

神と仏と鬼の戸隠

 一 岩戸開きの神々の物語 

(あま)(てらす)大御神(おおみかみ)(あまの)(いわや)に籠もる
   先代(せんだい)旧事(くじ)本紀(ほんぎ)

天の岩戸、戸隠に落ちる
   『平家物語』

天の岩戸、戸隠山となる
   先代(せんだい)旧事(くじ)本紀(ほんぎ)大成経(たいせいきょう)』1

手力雄命(たぢからおのみこと)、戸隠に鎮座する
   『先代旧事本紀大成経』2

九頭(くず)(りゅう)手力雄命(たぢからおのみこと)を迎える
   戸隠(とがくし)昔事(しゃくじ)縁起(えんぎ)

思兼命(おもいかねのみこと)の御子神・(うわ)(はるの)(みこと)(した)(はるの)
   高橋氏文(たかはしうじぶみ)

二 ()()(りゅう)と仏の物語

九頭一尾鬼の出現
   ()()()(しょう)

九頭一尾の大龍の登場
   顕光寺(けんこうじ)流記(るき)(ならびに)(じょ)

(えん)小角(おづの)九頭(くず)(りゅう)
   『戸隠山大権現縁起』

九頭龍権現の霊験
   『戸隠霊験談』

裏山の登拝
   本朝(ほんちょう)俗諺(ぞくげん)()

三 鬼の物語

人のいい鬼の官那羅(かんなら)
   諏訪(すわ)大明神(だいみょうじん)五月(さつき)(えの)(こと)

(みなもとの)満仲(まんじゅう)と戸隠山
   六孫王経元(りくそんのうつねもと)

酒典童子は戸隠明神の申し子
   (しゅ)(てん)童子(どうじ)(わか)(ざかり)

(たいらの)維茂(これもち)と鬼の化けた美女
   『紅葉狩』

吉備(きび)大臣(おとど)九生大王(くしょうだいおう)
   『とがくし山』

平維茂と鬼女紅葉
   北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝』

四 長明(ちょうめい)稚児(ちご)宣澄(せんちょう)
   長明の火定(かじょう)
    『拾遺(しゅうい)往生伝(おうじょうでん)

稚児(ちご)の塔

  沙石集(しゃせきしゅう)
(せん)(ちょう)と飯縄天狗
   
 『戸隠山大権現縁起』
後書き



一 岩戸開きの神々の物語                                             目次へ

戸隠神社本社(奥社)に祭られている神様は、(あま)の岩戸を開けた手力雄(たぢからおの)(みこと)です。中社(ちゅうしゃ)(あま)(てらす)大御神(おおみかみ)を岩戸から引き出すためのアイディアを出された(あま)思兼命(おもいかねのみこと)で、宝光社(ほうこうしゃ)は思兼命の御子である(あま)表春(うわはるの)(みこと)です。()御子(みこ)(しゃ)には岩戸の前で踊った(あま)鈿女(うずめの)(みこと)が祀られています。

このように戸隠に鎮座する神々は古代神話の岩戸開きに関わる神々です。天照大御神の岩戸ごもりと神々による岩戸開きは、『古事記』や『日本書紀』などに語られていますが、実は『古事記』も『日本書紀』も現代とは異なって容易に人々が手にして読めるようなものではありませんでした。

では、人々に神話を広めたのは何かということですが、それは九世紀に書かれたと推測される『先代(せんだい)旧事(くじ)本紀(ほんき)』という書物です。序文に飛鳥(あすか)時代の推古(すいこ)天皇の命によって聖徳太子と蘇我(そがの)馬子(うまこ)が著したとあり、奈良時代の『古事記』や『日本書紀』より古いということになっていました。平安中期から江戸中期までは、この序文が信じられていましたが、本居(もとおり)宣長(のりなが)徳川(とくがわ)光圀(みつくに)などは、一部に古い時代の内容もあるが、『古事記』や『日本書紀』、それに『古語(こご)拾遺(しゅうい)』などという書物を参考に後世に書かれたものだとしています。いまでは成立は平安時代初期であろうといわれています。

確かに、聖徳太子と蘇我馬子が著したというのは怪しいのですが、平安時代以来、この『先代旧事本紀』が世に広まり、人々に受容され、私たちの知っている神話の基になってきたものです。まず『先代旧事本紀』の岩戸開きの部分を紹介しましょう。

天照大御神、天の岩屋戸に籠もる

『先代旧事本紀』平安時代初期(大野七三「先代旧事本紀 訓註」批評社より口語訳。記述の順序を一部改め、原文中重複して煩わしい箇所は省略した)

岩戸開きの前の部分の要約

伊弉諾(いざなぎの)(みこと)伊弉冉(いざなみの)(みこと)の二柱の(みこと)大倭(おおやまと)豊秋津島(とよあきつしま)などの(くに)()みをし、さらに海の神や山の神、風の神などを生みます。しかし、伊弉冉尊は火の神を生んだ時に亡くなってしまいました。

亡くなった妻の伊弉冉尊を黄泉国(よもつくに)に訪ねた後、夫の伊弉諾尊はその汚れを(はら)(みそ)ぎをしますが、その時に、左の目を洗うと天照太神(あまてらすおおみかみ)が、右の目を洗うと月読(つくよみの)(みこと)が、鼻を洗うと建速(たけはや)素戔烏(すさのお)(みこと)が生まれます。これを三貴子(みはしらのうずのみこ)といいます。

天照大御神は高天原(たかまのはら)を、月読命は夜の世界を、素戔烏尊は海原を治めることになりますが、素戔烏尊は成人して鬚が生えても亡き母をしたって泣きわめいていました。それで父の伊弉諾尊に海原を追われますが、天照太神に会ってから母の国に行こうと思い、天原に上りま

この時に、天照太神は国を奪いに来たと思いますが、須佐之尊は誓約(うけい)をして野心の無いことを証明します。その誓約とは、天照大御神が素戔烏尊の剣を噛んで子を産み、素戔烏尊が天照太神の身につけた玉を噛んで子を産むことでした。素戔烏尊の剣から産まれた三柱の女子が素戔烏尊の子であり、天照太神の玉から産まれた六柱の男子が天照太神の子ということになり、女子を得たということで素戔烏尊の潔白が証明されます。

その後、誓約に勝った素戔烏尊は心おごって、天照太神の田の(あぜ)を壊したり、御殿に糞を撒いたり、また皮を剥いだ馬を機屋(はたや)に投げ込んだりの乱暴を繰り返します。その乱暴を恐れて天照太神は窟屋(いわや)にこもることになったのです

天照太神(あまてらすおおかみ)素戔烏(すさのお)(みこと)「お前はまだ悪い心をもっている。お前には会いたくない」とおっしゃって、そのまま天の(いわや)にお入りになり、磐戸(いわと)を閉じて姿を隠された。
 そのために、高天原はどこもかしこも暗くなってしまった。また葦原(あしはら)中国(なかつくに)の天地四方はいつも闇となって昼も夜も区別がつかない。それで多くの神々の声は五月の蠅が鳴くように騒がしくなり、すべての(わざわ)いがいっせいに起こった。夜ばかりが続く常夜(とこよ)の国に居るようである。神々たちは困惑して手も足も投げ出して、何事にも明かりを()けて執り行なわなければならなかった。
 時に、八百万(やおよろず)の神々は、天の八湍河(やせのかわ)の河原で神々の集いを行い、どのように祈ったらうまくいくかと相談をなさった。
 高皇(たかみ)産霊(むすびの)(みこと)の御子である思兼神(おもいかねのかみ)は思慮深く智恵のある神であった。よくよく考え、思いをめぐらせていわれた。
 常世(とこよ)の国の長鳴(ながな)き鳥を集め、互いに長鳴きをさせよう。また、日の神である天照太神の像を作って太神が窟からお出になられるようにお祈りしよう」といわれた。
 その準備として、鏡作りの(おや)である石凝姥(いしこりとめの)(みこと)鍛冶(かじ)にして、鉄を鍛える台として天の八湍(やせ)の河の川上の天の堅石(かたいし)を採らせた。
 また、真名鹿(まなか)(かわ)(まる)()ぎにして天の(ふいご)を作り、天の金山(かなやま)(あかがね)を採って、日の(ほこ)を作らせた。この時に作った鏡は、いささか思うような物ではなかった。この鏡は紀伊の国にいらっしゃる日前神(ひのくまのかみ)である。
 そこで、鏡作りの祖である天の糠戸神(ぬかとのかみ)を召し出され、天の香山(かぐやま)の銅を採らせて日の神である天照太神の像の鏡を作らせた。糠戸神は石凝姥命の子である。
 その鏡の形は(うるわ)しいものだったが、岩戸に触れて小さな傷がついた。この傷はいまでもある。これが伊勢神宮にお祀りする天照太神である。いわゆる八咫(やた)の鏡、またの名を真経津(まふつ)という鏡がこれである。
 また、玉作(たまつくり)の祖である櫛明玉神(くしあかるだまのかみ)に命じて、八坂瓊(やさかに)五百箇(いおつ)御統(みすまる)の玉(大きな沢山の首飾りの玉)を作らせた。櫛明玉神は伊弉諾(いざなぎの)(みこと)の御子である。
 また、天の太玉神(ふとだまのみこと)に命じて諸々の集団の神を率いて幣帛(へいはく)を作らせた。
 また、麻積(おみ)(おや)である長白羽神(なかしらはのかみ)に麻を植えさせて、これを用いて麻で作った榊に掛ける布の青和幣(あおにぎて)を織らせた。この織物を白羽(しらは)というのはこの縁である。
 また、津咋見神(つくひみのかみ)(かじ)を植えさせその木綿(ゆう)で榊に掛ける布の白和幣(しろにぎて)を作らせた。麻も穀も一晩で生い茂った。
 また、(あわ)忌部(いんべ)の祖である天の日鷲神(ひわしのかみ)に、木綿を作らせた。
 また、倭文造(しどりのみやつこ)の祖である天の羽槌雄神(はづちおのかみ)に、縦縞(たてじま)や格子の文様の文布(しどり)を織らせた。
 また、天の棚機姫神(たなはたひめのかみ)に、神衣を織らせた。いわゆる織り目の細かい和衣(にぎたえ)である。[また爾岐大倍(にぎたへ)という]
 また、紀伊の忌部(いんべ)遠祖(とおつおや)手置帆負神(たおきほおいのかみ)に命じて、笠を糸で作る作笠(かさぬい)とした。そしてこれらを共に一つの職とした。
 また、彦狭知神(ひこさしりのかみ)に命じて、楯を作らせた。
 また、玉作部(たまつくりべ)の遠祖の豊球玉屋神(とよたまのたまやのかみ)に命じて、玉を作らせた。
 また、天の目一箇神(まひとつのかみ)に命じて、さまざまな刀・斧・また鉄鐸(さなぎ)(鉄の銅鐸)を作らせた[鉄鐸はいわゆる佐那岐(さなぎ)という]
 また、野槌者(のづちのかみ)に命じて、たくさんの(のすすき)八十玉籤(やそたまくし)を採らせた。
 また、()(おく)()(おい)彦狭知(ひこさしり)の二神に命じて、天の御量(みはかり)で大小の様々な器の類を量り、名をつけさせた。
 また、大小の谷の材木を伐って、瑞殿(みづのみあらか)を造らせた。古語に()()()()()()()という。
 また、山雷者(やまいかづちのかみ)に命じて、天の香山の枝葉のよく茂った賢木(さかき)を掘りとらせた[掘り取ることを古語に()()()()()()()()という]
 賢木の上の枝には()(たの)(かがみ)を掛けた。またの名を真経津(まふつ)の鏡という。
 中の枝には八坂瓊(やさかに)五百箇(いおつ)御統(みすまる)の玉(大きな沢山の首飾りの玉)を掛けた。
 下の枝には(あお)和幣(にぎて)(しろ)和幣(にぎて)を掛けた。
 およそ、これらの様々な諸物を整え設けることは、事細かく思兼命が考えたとおりである。
 また、中臣(なかとみ)(おや)の天の児屋(こやねの)(みこと)忌部(いんべ)の祖の天の(ふと)(だまの)(みこと)に命じて、天の香山(かぐやま)の牝鹿の肩の骨をそっくり抜きとり、天の香山の波波迦(ははか)(朱桜)を取って占わせた。
 また、手力雄(たぢからおの)(みこと)に命じて、窟戸(いわと)の脇に隠れて控えさせた。
 また、天の太玉命に命じて、幣帛をささげ持たせて、天照太神の徳をたたえる詞を申しあげさせた。また、天の児屋命を共にひれ伏させ祈らせた。
 また、天の太玉命をして広く厚く徳をたたえる詞を申しあげ、「私が持っている宝鏡の明るく麗しいことは、あたかもあなた様のようです。戸をあけてご覧ください」と申し上げた。そして、天の太玉命と天の児屋命は、共にその祈祷をした。
 この時、天の鈿売命(うずめのみこと)は、天の香山の真坂樹(まさかき)(かずら)を髪飾りにし、天の香山の天の日蘿懸(ひかげ)の葛を(たすき)とし、天の香山の笹の葉を手に持つ採物(とりもの)とし、手に(さなぎ)をつけた矛を持って、天の石窟(いわや)の戸の前に立ち、(にわ)()()いて巧みに踊りをした。火を焚いて、桶を伏せてこれを踏み轟かせ、神がかりになって口走り、胸乳(むなち)をかき出だし裳の紐を陰部まで押し下げると、高天原が揺り動いて八百万(やおよろず)の神々がいっせいに笑った。
 この時、天照太神は心の中で不思議に思われた。
 「この頃、私がここに籠っているから、天下は全て暗闇になり、葦原の中国(なかつくに)はきっと長い夜が続いているだろう。それなのに、どうして天の鈿売命はこんなに喜び笑い、八百万の神々もみんなして笑っているのだろう」とおっしゃり、そしてこの騒ぎを怪しまれて、窟戸(いわと)をわずかに開いて、楽しみ騒いでいるわけを問われた。
 天の鈿売命が答えて、「あなた様よりも、たいそう尊い神様がおいでになっているのです。それでこのように喜び笑っているのです」と申しあげた。天の太玉命、天の児屋命が八咫(やた)の鏡をそっと差し出して、天照太神にお見せすると、天照太神はますます不思議に思われ、少し細めに(いわ)()をあけて、これをご覧になる。
 そのとき思兼神(おもいかねのかみ)手力雄神に命じて、天照太神の御手をとって引き出させ、その扉を引きあけ、新しい御殿にお移し申しあげた。そこで、天児屋命と天太玉命は、日の御綱縄(みつな)を、その後ろの境界にめぐらし掛けて、二度と窟に戻られないように端出左(しりくめ)(なわ)(注連縄)とした。そうしてすぐさま、天太玉命と天児屋命の二柱の神は「もう、天の窟屋にはお戻りになりませんように」とおっしゃった。
 またこうして、天照太神が天の窟屋(いわや)から出られると、高天原と葦原(あしはら)中国(なかつくに)は、自然と照り明るくなることができた。
 その時になって、天ははじめて晴れた。それで「あはれ」という。つまり、「天晴れ」ということである。「あなおもしろ」は、古語に事がたいそう切迫することを、すべて「あな」といい、神々の顔が明るく白くなったので「あなおもしろ」といったのである。「あなたのし」というのは、手を伸ばして舞うことである。今、楽しいことを指して、これを「たのし」というのはこの意味である。「あなさやけ」は、竹の葉の音のことである。「おけ」は、木の名であろうか。その葉を振る言葉である。
 また、大宮売神(おおみやのめのかみ)に命じて、天照太神の御前へ侍らせた。この神は天の太玉命が神聖な所に生んだ神である。現代の宮中の女官の内侍(ないし)が喜ばしい言葉や端麗な言葉を用いて、君主と臣下との間をやわらげて、天皇の御心を喜ばせ申しあげるような役割をするようなものである。また、また、(とよ)(いわ)間戸(まどの)(みこと)(くし)(いわ)間戸(まどの)(みこと)の二柱の神に命じて、御殿の門を警護させた。この二神はともに天の太玉命の子である。
 その後、八百万(やおよろず)の神々は、みなして相談し、罪科は素戔烏(すさのおの)(みこと)にあるとして、その罪科を負わせて、多くの品物をすべて祓いの物として取り立てた。そして、髭を抜き、爪を抜いてその罪のあがないをさせた。

この後、高天原を追われた素戔烏(すさのおの)(みこと)は出雲の国に至り、そこで有名な八俣(やまた)大蛇(おろち)退治(たいじ)の話が展開します。

なおここに紹介した『先代旧事本紀』が戸隠にとって大事なのは、表春命(うわはるのみこと)八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)の御子として登場することです。『古事記』や『日本書紀』では、天孫(てんそん)降臨(こうりん)といって、天照太神の孫の瓊瓊杵(ににぎの)(みこと)葦原(あしはら)中国(なかつくに)を支配するために(あま)(くだ)りますが、『先代旧事本紀』では、その前に瓊瓊杵尊の兄の饒速日(にぎはやひの)(みこと)がまず天降ります。この時に三十二柱の神々がお供をしますが、その内に表春命の名前があり、信乃(しなのの)阿智(あちの)祝部(いわいべ)(たちの)(おや)とされています。信乃阿智は現在の長野県下伊那郡阿智村(あちむら)だといわれています。

表春命については後の「思兼命の御子神・表春命と下春命」で詳しく触れます。

 天の岩戸、戸隠に落ちる                                                    目次へ

岩戸開きの話が載っている『古事記』や『日本書紀』には、実は岩戸が戸隠に落ちてきて戸隠山になるという話は載っていません。そればかりか、手力雄命が岩戸を開けたともその主文にはありません。『日本書紀』に一説として戸を開けたとわずかにあるだけです。しかし、『先代旧事本紀』では岩戸を開けたことになっていますし、この話は室町時代になるともっと詳しくなり、戸隠に岩戸が落ちてきたという話に発展し、大々的に世間に広まります。室町時代中期に広まった辞書の『節用集』、さらに手紙類の形式をとった昔の教科書といってよい室町時代末期の『庭訓(ていきん)往来(おうらい)(ちゅう)』、それに次に紹介する『平家物語』に岩戸が戸隠に落ちてきた話が登場します。広く読まれた辞書や教科書、語り物に登場するのですから、戸隠に岩戸が落ちてきた話は、中世には大々的に日本中に広まっていたことになります

『平家物語』  室町時代以降(「平家物語 百二十句本 京都本」思文閣版より口語訳)

天照大神(てんせうだいじん)が岩戸を細目に開かれて、外を御覧になられた時、世の中が少し明るくなって、集まっていらっしゃる神々の御顔が白々として見えたので、天照大神が岩戸の内から「(おも)(しろ)し」とおっしゃられた。「おもしろい」という言葉はそれから始まったのである。天照大神が岩戸から御目を少し出だされたのを、集まっていらっしゃった神さま達がそれをご覧になって、「あゝ、御目が出た」と喜ばれたので、それからは喜びの言葉を、「めでたい」という。その時、手力雄命という大力の神さまがいたが、「えい、えい」という声をあげて、岩戸を引き開き、扉をひきちぎつて、天と地の間に遠く投げられたところ、信濃国に落ちた。これが戸隠の明神である。

この『平家物語』の場合、落ちてきた岩戸は戸隠の明神になったのであって、戸隠山そのものになったのではありません。そして、戸隠の神さまが岩戸であるにしても、岩戸そのものが山のどこかになければならないことになります。「戸隠」という名からして、山のどこかに岩戸が隠されていると考えるのは自然なことで、『平家物語』より後の『顕光寺流記並序』(一四五八年)には「()力男(ぢからおの)(みこと)が天の岩戸を隠して置いたので戸隠という。その戸は今もある。」とあります。どこにあるとは記されていません。明治三九年に戸隠山に登った飯島(いいじま)花月(かげつ)は『戸隠壮遊記』(信濃毎日新聞・九月十五日号)に、「更に進みて太鼓岩を越ゆれば戸渡り岩に到る、岩は即ち神社考に、多力雄命取岩戸抛空、落在神之戸隠、の岩戸に取て而して名づけしもの也」(「落在神之戸隠」は引用の間違い『神社考』には落在信州戸隠」とある)と記しています。どうやら現在の蟻戸の渡り(蟻塔の渡り)を岩戸と考えたようです。山のどこかに岩戸があるという受け取り方は後々まで続いて、現在の参拝者の中にもそう思っている方が大勢います。

では、戸隠山のどこかに岩戸が隠されているのでなく、戸隠山そのものが岩戸であるという話は何時はじまったのでしょうか。

 天の岩戸、戸隠山となる                                                       目次へ

江戸時代の一六七九年頃、『先代旧事本紀大成経』という奇書が出版されます。神武天皇の時代に卜部および忌部(いんべ)の先祖が、その祖記を土簡(はにふだ)に記して土笥(はにはこ)に納めて祠に奉安しておき、推古(すいこ)天皇二八年(六二〇年)に聖徳太子の命によってこれを取り出しましたが、太子が翌年死去したので推古天皇はこれを編させ、その散佚(さんいつ)を恐れて五十鈴宮、大三輪宮、四天王寺に秘蔵した、それが伝わったものが『先代旧事本紀大成経』だというのです。本居(もとおり)宣長(のりなが)水戸(みと)光圀(みつくに)平安時代初期の先代旧事本紀』はちゃんとした書物ではないとしたのですが、これこそ本物の『先代旧事本紀』だといって登場したのが『先代旧事本紀大成経』です。徳川幕府はこれを偽書として発禁処分にしましたが、世間に大きな影響を与えた奇書で、この書物の岩戸開きの部分には次のようにあります。

『先代旧事本紀大成経』 一六七九年頃『続神道大系』より口語訳)

天照太神はいよいよ妙に思っていま少し岩戸の扉を開けた。その時、手力雄命は、その扉をもって引き開け、瑞朗国(みずほのくに)に投げ落とすと、扉はそのまま山となった。今の信濃国の戸隠山がこれである。

一八一二年(文化九年)から一八二五年(文政8八年)にかけて出版された平田(ひらた)(あつ)(たね)の『古史伝(こしでん)』には「世間では、この時に石戸を引き開けて、その戸をお投げになったものが、信濃の国に落ちて山となった、それが戸隠山であると言い伝える」とあります。したがって、江戸時代には天の岩戸イコール戸隠山説は世間に広まっていたことになります。なお、平田篤胤は、高天原から天若日子(あめわかひこ)喪屋(もや)が地上に落ちてきて美濃(みのの)(くに)喪山(もやま)となったという『古事記』にある話を引いて、落ちてきた岩戸が戸隠山になるということは考えられることだといっています。

 手力雄命、戸隠に鎮座する                                             目次へ

幕府は先の『先代旧事本紀大成経』を発禁としましたが、この本は、広く流布して世間に大きな影響を与えました。岩戸が戸隠に関係づけられると、さらに進んで手力雄命も関係づけられます。その経緯を語って世間に広めたのも『先代旧事本紀大成経』です。

『先代旧事本紀大成経』 (『続神道大系』より口語訳)

第八代孝元(こうげん)天皇(てんのう)の五年春正月、(あまの)八意(やごころの)(みことの)(かみ)は御子の手力雄命を連れて、科野国(しなののくに)天降(あまくだ)り、みずから吾道宮(あみちのみや)を立てて鎮座なされた。その後、手力雄命は戸隠山に(うつ)った。この山は深くて人が入らないので、手力雄命はみずから巌窟に鎮座なされた。明年春三月、二神は共に宮中に(おもむ)き、天皇に様子を報告した。天皇は(よろこ)んで祭供を設けられる。

平安時代の『先代旧事本紀』では、思兼命が信濃国に天降って阿智(あちの)祝部(いわいべ)(たちの)(おや)になったこと、またその御子の表春命(うわはるのみこと)も阿智祝部等祖とされていましたが、『先代旧事本紀大成経』では、手力雄命も思兼命とともに阿智に天降り、その後、手力雄命は戸隠山に遷ったことになっています。なお、手力雄命が思兼命の子供だということは、十三世紀の末頃から云われるようになっていました。

この『先代旧事本紀大成経』は元禄時代に戸隠でも読まれていた形跡があるので、それまで断片的であった戸隠への神々の鎮座をしっかりと跡づける役割を果たしたと思われます。

 九頭(くず)(りゅう)手力雄命(たぢからおのみこと)を迎える                                           目次へ

明治政府による神仏分離政策は、神仏習合の寺として発展し、(けん)(こう)()といわれてきた戸隠にとって大事件でした。奥院権現は手力雄命で本地(ほんじ)(しょう)観音(かんのん)、中院権現は思兼命で本地は釈迦、宝光院権現は表春命で本地は将軍(勝軍)地蔵ということになっていたのですが、顕光寺は戸隠神社となったのですから、仏を祭ることは出来ません。そこで、それぞれの仏像は戸隠からそれぞれに別の寺に移されました。問題は、戸隠信仰の中心をなしていた九頭龍権現の取り扱いでした。本地は弁才天となっていたので、弁才天を神社の外に出すのはたやすいのですが、権現である九頭龍という神道の神様は本来はいらっしゃらないのです。九頭龍をいかにして神社に残すか、この仏教めいた九頭龍をもしも神社に残すことが出来ないとしたら戸隠信仰の根本が失われかねなかったのです。

嘆願の甲斐あって裁定する神祇官(じんぎかん)が九頭龍は「国之(こうこくの)神祇(じんぎ)」だから心配するな、との立場をとってくれました。神祇官の注文は、九頭龍権現を九頭龍大神と改称し、その趣旨を祝詞に作れ、ということでした。九頭龍が人々が信仰する古くからの民間の神であることは確かですが、天照大御神を中心とする「皇国之神祇」であるというのは相当に無理な解釈です。神祇官にも無事に神仏分離を成功させるための相当の配慮があったのでしょう。

こうした状況の中で、「皇国(こうこく)()神祇(じんぎ)」であることを説明する大事な文書が出現します。『戸隠(とがくし)(本院)昔事(しゃくじ)縁起(えんぎ)』といわれる文書です。現小川村にあったものを宝暦(ほうれき)十三年(一七六三年)に写したものというのですが、写本の原本は焼失したとのことです。

『戸隠昔事縁起』 明治の初めか(『神道大系 神社編 美濃・飛騨・信濃国』より口語訳。□は欠字。一字分とは限らない)

我らは天手力雄の大神にお仕え奉る。大神は天降ってこの戸隠山に鎮座されている。そこで本窟に大社を建造し、大稜威(おおみいつ)を仰ぎ奉る。
 その根元を考えるに、昔、高天原において、天照大神の御弟・素盞鳴命(すさおののみこと)は、悪事を行い御姉の(みこと)を驚かせた。また後に□なさったので、御姉の尊は甚だしく怒られて天の岩屋に入り、石戸を閉じてお隠れになった。そのために世の中は常夜(とこよ)となって昼夜の別がなくなり、さまざまな(わざわい)がことごとくに起こった。
 そこで八百万(やおよろず)の神々は、憂えて天安之河原(あまのやすのかわら)にあつまって相談された。高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお告げをもって、思金神(おもいかねのかみ)に思案させると、思金神が言うには「天照大神の御像(みかたち)八咫(やあた)の鏡で造り、また常世の長鳴鳥(ながなきどり)をして鳴かせよ」云々と。
 相談され□□、天手力雄神は隠れて石戸の陰にお立ちなり、天鈿売命(あめのうずめのみこと)俳優(わざおぎ)だから笑顔を作ることができ(おど)り舞われた。庭の火が輝いてはなはだ面白かったので、八百万の神々は、その声を高く上げ大いに笑って祝われた。
 その時、□□天照大神霊□□思し召され、石戸を細めに開けてご覧になる時、その隠れて立っていらした天手力雄の大神の霊はすぐれて雄武の御霊で、その石屋の戸をもって引き開け投げられた。
 すなわち、それが葦原(あしはら)中津国水内(なかつこくみのち)の戸隠山である。それでまた石戸山という。この岩戸が落ちてこの地に止まり、山となる時に応じて響き、それで顕れた神は、九頭龍の神、これである。それでまた名づけて石戸守の神という。地主神である。これは天手力雄の神の分かれた御魂である。
 しかる後、行って□□住まわれる所は、今□□本窟は直に平らかな湖の地に向かって位置している。そしてもっぱら草木の葉と実をくらい、食して「あてがい」とした。また、たまたま霧が吹き立ち□□大雨が降ると、天と国を()けめぐり大八島(おおやしま)の始まる所から外国に至るまで、よく穀物を養育守護して人々を生かされた。それで庶民はこの九頭龍の神を作神(さくがみ)という。
 手力雄の命は、石戸を投げられるとただちに天照大神の御手を取って引き出し奉り、新宮に遷し奉ってもっぱら御殿の御門に居られてこれを防ぎ、四方四隅から入ってくる、悪事を清め祓ってよく奉仕□□なさる。
 しかる後に天照大神は、皇孫(こうそん)である邇々芸命(ににぎのみこと)に、三種の神器および御門の神と諸神たちを()えられて、告げて言われるには、「この神宝中の鏡をもっぱら私の□魂となして、私の前に拝するように仕えなさい」。このようにおっしゃられて、すなわち皇孫の命の御守護をさせ、お側を離れず、雄々武の御威勢をもってお仕えさせた。
 邇々芸命は日向(ひゅうが)の高千穂の可振嶽(串振嶽(くしふるだけ)カ)に天降りなされ、後に笠狭(かささ)御碕(みさき)に行って、大宮柱(おおみやはしら)を太くしっかりと立て高天原にとどくまでと千木(ちぎ)を高く立てて鎮座された。手力雄の命は、時にまた同じ御宮に侍しなされて悪神や(よこしま)な者□□入れば祓い退散させて清め守り仕えなさった。
 このようにして後□手力雄の命すなわち御戸開の神が告げられていうには、「吾は昔、天にある時、天の石戸を投げ落とした。いま科野(しなの)の国に止まっていて山となっている。その山は我の御魂霊(みたま)が残る地である。すなわちその所に行って住む事はまことにそうあるべきである。しかし、その地は、いまは水湖の地が多くあると聞く、禍をなす者が居ると聞く。それで容易(たやす)く行くことはできない。しばらくはこの隣の地に住んで後、治まったならば行こうか。
 こうおっしゃって筑前(ちくぜん)の国に行き、住まわれた所をいま戸隠宮という。祭神は手力雄の神である。後に東国□はどうなっただろうか、こうおっしゃって、紀伊に行って住まわれた所はいま手力雄の命の神社という。
 こうして信濃の国に行き、伊那に御連神を置かれて後、この水内の戸隠山に遷座なさる時、□□本窟の向こうの平地の沼の中から□□お迎え申し上げる者があった。その身は剛威であって、それで命はこれを見て尋ねて言われた。「おまえは何者か」。九頭龍神は答えて言う。「我は命であるあなたの(あら)(みたま)(勇める魂)であり奇魂(くしみたま)である。ずっと、この山に住んで守護すること八万余年になる。いま神のあなたが高天原からこの地に降りられたが待つこと久しい」という。手力雄の神が、またたずねていうには、「それならあなたという神は私の御霊神(みたまがみ)か。この山中に住む地としてどこがよいか」。九頭龍の神はまた答えていう。「命のお住みになられる地は、この山中あたりの石屋がよいでしょう」。告げ終わってその石屋を社地と定め、宮を建て、手力雄の命の大神を(うつ)し祀り申し上げた。そして九頭龍神も□□みずから事を奉じてお仕えし、同じ側の石室に住んで鎮まっていらっしゃる。時に人皇八代孝元(こうげん)天皇五年のことである。
 だから、このことからその石屋を本窟という。また、いまにいたるまで九頭龍社本殿より御()(ぜん)を持って行ってお供えするのはこの事の縁である。□□それで手力雄命の大神を戸隠の大神と申し上げる。すなわち、九頭龍の神と互いに力を合わせてよく守り、穀物が養育し人々が安らかに生活できるように護っている。深く□朝廷の侍御□天下国家の災難がないようにする。
 したがって、九頭龍神に御供食を献じ申し上げるのは、御戸開富神が天から下られた後□(おう)(じん)天皇七年(二七六年)、犬養氏は大神の来られたことのお告げを賜り、山に登り、両□神御宮に造営し、弊帛(へいはく)を捧げ齋祀(いつきまつ)られる。この時を始めとして九頭龍は米を炊いて飯としお供え奉られる。また調べて供え奉ったものがさらに残っていると差し上げない。□これによって本窟の□等合わせて言い、天皇に奏上□、天皇は□を聞かれて、篤く信ぜられた。それで御供食として社領を賜わり、勅祭された。
 犬養氏は戸隠に留まり、手力雄・岩戸開神・彦神別神及び九頭龍の生き神のお告げを蒙って奉仕に順随、上首の山生と共にいた。□由山生および犬養氏の子孫を長く勤めさせた。それで子孫を本院谷二十家という。また犬養氏の住居で二柱の神に奉仕をなさった所を今は熊野林地という。
 その後、推古天皇の御代に使者を使わされて、御真□一首を賜り御社を造営して、幣帛を捧げた。御斎、御祷があった。この後、()(とう)天皇の御代五年八月、勅使を使わされ、新たに御社を造営なさり、天手力雄・御戸開富神に幣帛と犀角の宝笏を捧げた。少松を神庭に柱とし注連縄(しめなわ)を曳き、新殿に湯花をあげさせ、願詞をのべて神楽を奏し、神慮を慰めた。そして勅使は纓緒を解いて冠衣を脱ぎ、同じように新殿に賜った。この時、犀角の笏ならびに木葉石の宝及び勅使の装束を奉納した。
 社領の書録等これらはみな当社の宝物であり、神殿に秘蔵している。この社領の書録文にいうには、この度、天皇の御祈りがあって水内一郡を社領となし、手力雄、御戸開富の神の新殿に奉納するものであると。よってこの社を水内□。惜しいかな□和年間頃九頭龍社が火災に遭い、この書録およびに勅使の装束等はみな焼失してしまった。今はただ残る□のは、犀角の宝笏および木葉石宝璽だけである。この時に勅使が宿をとられた所は今は熊野林地という。
 後、また、(にん)(めい)天皇の御代、承和(じょうわ)(みずのえ)(いぬ)年勅使を賜り、新たに社を改造して幣帛を捧げ、御位階を賜り、従五位下に進む。この後、また清和(せいわ)天皇の御代、貞観(じょうがん)九年三月、勅使を賜り、神殿を改造し、幣帛を奉り、神事をして、階位は従二位に進む。武御戸開富神云々、ある伝に承和年間より貞観九年に至る間、位階を賜ること再度あったという。伝はなくなったので不明である。時が経って青木が茂り青山となる、よってどうなのか詳しくは分からない。
 この後、□暦年中に阿智社の(いわい)が登山して、天手力雄神の本殿に表春命・思兼命の二柱を相殿し、祭らせていらっしゃる□、このようにして(こう)(へい)元年(一〇五八年)表春命を宝光院に分社し、また思兼命を(かん)()元年(一〇八七年)中間に分社した。これによって奥院は本社と称する。ここに記すのは後人の為にこのように記すのである。 伝栄写す。

この文書で九頭龍は「我は(みこと)であるあなたの荒魂(勇める魂)である。奇魂(くしみたま)等の神と、この山に住んで守護すること八万余年になる」と述べています。神道には荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)という四魂の考えがあります。神の荒ぶる側面が荒魂で、恵みの側面が和魂、その和魂が幸魂、奇魂に分かれるともいうのですが、要は同じ神のいろいろな側面が独立した神であるかのように現れるというのです。伊勢神宮の正宮はもちろん天照大御神を祀った皇大神宮(こうたいじんぐう)ですが、その北側に荒祭宮(あらまつりのみや)があり、天照坐(あまてらします)(すめら)大御神(おおみかみ)(あら)御魂(みたま)が祀られています。つまり天照大御神にも荒魂があるのです。

ですから、手力雄命の荒魂としての側面が、九頭龍という神の形を取って、岩戸の落下と共に戸隠に現れるという考え方も成立します。こう考えれば、九頭龍は手力雄命の分身のようなものですから立派な「皇国之神祇」ということになります。

九頭龍と手力雄命を同一視する傾向は古くからあり、元禄時代に戸隠を訪れた大淀三千風は『日本行脚文集』で衆生の八苦にかはり、三熱に労じおはします」などと仏教的な考え方は濃厚ですが、次のように述べています。

〇戸隠山の閑窟 三諦三宮の中にも、奥の院で高天原の古き時代を思い思兼命の御子である、勇猛な手力雄命が、天の岩戸を引き放って、信州の戸隠に持ち来て、ご自身も、寂寞金剛の窟内に引き籠もり、生身のままに生き続けて、九頭竜権現と呼ばれ、神として祝福されることを弥勒菩薩による竜華三会に期待し、人々の八苦に代わって、ご自身が三熱の苦しみに耐えていられることこそ、大層なものである。昔よりの奇瑞はさまざまであるが、毎日、十合の米を炊いて供えても、一粒も残されない。また信者が供える初穂の珍華を、ざくざく食べる音は、瀑布のように響き、和光交夢の(いびき)は、松風と響き合う。まこと神国第一の(いき)(かみ)。話すだけでも身の毛だつことである。

神仏習合ではなく、神道に純化された物語として、九頭龍=手力雄命を描き出したのは『戸隠昔事縁起』が初めてです。

 思兼命の御子神・(うわ)(はるの)(みこと)下春(したはるの)(みこと)                目次へ

アイディアの神様の思兼命と、実行の神様の手力雄命は、岩戸開きで大活躍です。そのためでしょうか、思兼命が父で、手力雄命がその御子だという説が中世には広まります。『先代旧事本紀』で、もともと御子とされていたのは表春命と下春命だけで、兄の表春命は父の思兼命と同様に信濃の阿智祝部等の(おや)と記されています。弟の下春命は武蔵秩父国造等の祖となっています。父神が戸隠の中社に祀られるようになったのですから、同じように阿智祝部等の祖であった御子神の表春命が戸隠の宝光社に祀られるようになったのも頷けますが、一方の下春命は武蔵の秩父に行ってしまったので、戸隠には残念ながら祭られていません。

この表春命と下春命は『先代旧事本紀』では、瓊瓊(にに)(ぎの)(みこと)の兄である饒速(にぎはや)(ひの)(みこと)天孫降臨するお供の神々に加わってはいますが、具体的な事蹟は記されていません。しかし、宮内省(うちの)膳司(かしわでのつかさ )に仕えた高橋(たかはし)(うじ)が自己の正当性を主張して安曇(あずみ)(うじ)と争った時に、古来の伝承を朝廷に奏上した高橋氏文(たかはしうじぶみ)』という文書789年)兄弟の名前が出てきます。

江戸時代の(ばん)(のぶ)(とも)が『高橋氏文考註』にまとめたものから紹介しましょう。

『高橋氏文』 奈良時代末(『伴信友全集』の「高橋氏文考註」より)

口に出して申し上げるのも恐れ多いことだが、向日代宮(まきむくのひしろのみや)に天下をお治めになる景行(けいこう)天皇(てんのう)の五十三年八月、天皇は臣下たちに仰せられた。
 「死んだ愛する子を思う私の気持ちは、いつになったらやむことであろうか。碓王(おうすのみこ)(またの名を倭武王(やまとたけるのみこ))が平定した国を巡ってみたいと思う」。
 この月に、伊勢へ行幸になり、さらに東国へ移られた。冬十月、上総(かずさの)(くに)安房(あわ)(うき)(しまの)(みや)へご到着された。このとき、磐鹿六?命(いわかむつかりのみこと)もお供申し上げた。
 天皇は仮宮である浮島宮から葛飾(かつしか)の野へ行幸して、狩りをなされた。
 そのとき、大后(おおきさき)八坂媛(やさかひめ)は仮宮にいらっしゃり、磐鹿六?命もまたそこに留まっていた。
 このとき、大后が磐鹿六?命に仰せられた。
「この浦で、霊妙な鳥の鳴き声が聞こえる。「ガクガク」と鳴いている。その姿を見たいと思う」。
そこで、磐鹿六?命が船に乗って鳥のところに行くと、鳥は驚いて他の浦へ飛んでいった。なおも追いかけて行ったが、ついに捕らえることはできなかった。
 そこで、磐鹿六?命は鳥に呪いをかけていった。
「鳥よ、その声を慕って姿を見たいと思うのに、他の浦に飛び移って姿を見せてくれない。今から後、陸に上がってはならぬ。もし陸地に降りれば、必ず死ぬであろう。これからは海中を住み家とせよ」。
 鳥を追っていって帰るとき、船の(とも)のほうを振り返って見ると、魚がたくさん追いかけてくる。そこで、磐鹿六?命が角弭(つのはず)の弓を、泳ぎ浮かぶ魚たちのなかに入れると、魚が(はず)にかかってきて、たちまちにたくさん獲ることができた。そこで、その魚を名づけて「頑魚(かたうお)と呼んだ。これを今の言葉では「カツオ」という(今、角を釣り針の柄にしてカツオを釣るのは、これに由来する)。
 ところが、船は引潮で(なぎさ)の上に乗り上げてしまった。船を掘り出そうと砂を掘り、大きな白い(はまぐり)を手に入れた。磐鹿六?命は、カツオと蛤の二つを大后に献上した。
 すると大后は、そのことをお誉めになってお喜びになり、「それをおいしく美しく料理して、天皇のお食事に差し上げたい」仰せられた。
 そのとき、磐鹿六?命は、「私が料理をさせてお食事に奉りましょう」と申し上げ、武蔵の国造(くにのみやつこ)の先祖である大多毛比(おおたもひ)、秩父の国造の先祖である天上腹(あまのうわはら)天下腹(あまのしたはら)らの一族らを呼び寄せ、(なます)をつくり、煮たり焼いたりして、さまざまに料理して盛りつけ、阿曲山(かわわやま)(はじ)の葉に目をつけて高坏(たかつき)八枚を作り、真木の葉に目をつけて平坏(ひらつき)八枚を作った。磐鹿六?命はヒカゲノカズラを取って(かずら)とし、カバの葉で角髪(みずら)を巻き、マサゲの葛を採って、(たすき)にかけて帯とし、足結(あゆひ)を結んで身なりを整え、さまざまな物を美しく整え、そして、天皇が狩りからお戻りになり、宮へお入りになったときに献上しようとした。
 このとき、「これは、誰が料理して進上したものか」と天皇がお尋ねになった。そこで、大后が申し上げた。
「これは磐鹿六?命が献上したものです」
 すると天皇はお喜びになり、お褒めになって、

「これは、磐鹿六?命一人の心から出たことではない。これは天にいらっしゃる神が行われたものである。大和の国は、行う仕事によって名をつける国である。磐鹿六?命は、我が皇子たちに、また生まれ継ぐ我が子々孫々までに、永遠に天皇の食事に身を清め慎んで従事し、仕え申しあげよ」と仰せになられ、(かしわで)(のおみ)の名をお負わせられた。
 そして、若湯坐連(わかゆえのむらじ)らの始祖の物部(もののべの)意富売布(おおめふの)(むらじ)が帯びていた大刀をお解かせになって、添えてお与えになった。
 また、「食事の勤めを行うには、多くの(とも)(官人)が立ち並んで奉仕するものとせよ」と仰せになり、東西南北の諸国から人を割き移動して、大伴部(おおともべ)と名づけ、磐鹿六?命へお与えになった。
 また、多くの氏人や東の多くの国の国造(くにのみやつこ)十二氏の幼子を、それぞれ一人づつ献上させ、平坏と織物をお与えになって、磐鹿六?命に(ゆだ)ねられた。
「山と野と海と河は、ヒキガエルの行き渡る果てまで、船の漕ぎ行く果てまで、大きい魚も小さい魚も、山のいろいろな獣など、お供えするさまざまのものをたばね束ねて天皇に奉仕せよ」と委ねられた。
「このように委ねることは、私ひとりだけの考えではない。これは、天にいらっしゃる神のご命令であるぞ。我が一族の磐鹿六?命よ、多くの膳夫(かしわで)をたばね率いて慎んで奉仕せよ」と仰せられ、誓って委ね任じられたのである。
 このとき、上総国の安房(あわの)大神(おおかみ)御食(みけ)つの神としてお祀りし、若湯坐連(わかゆえのむらじ)らの先祖である()()()(ふの)(むらじ)の子の(とよ)(ひの)(むらじ)に火を()りださせ、これを神聖な斎火(いみび)として、斎い清めて御食事にご奉仕し、また、大八島(おおやしま)になぞらえて、八男(やおとこ)八女(やおとめ)を定め、神嘗(かんえ)大嘗(おおにえ)などに仕え奉り始めたのである[安房大神は御食(みけ)つ神で、いま大膳職(おおかしわでのつかさ)で祀っている神である。いま、斎火(いむび)()らせている大伴造(おおとものみやつこ)は、物部豊日連(もののべのとよひのむらじ)の子孫である]。
 同じ年の十二月、天皇は東国から伊勢国の綺宮(かんはたのみや)へお帰りになった。治世五十四年甲子九月、伊勢から大和の纒向宮へお帰りになった。
 五十七年丁卯十一月、武蔵国の知々夫(ちちぶ)大伴部(おおばともべ)の先祖である三宅連意由(みやけのむらじおゆ)が、木綿(ゆう)で蒲の葉に代えて角髪(みずら)を巻いた。このとき以来、木綿を使い、ヒカゲノカズラなどの葛を副えて用いている。
 纒向(まきむく)の朝廷の御代、(みずのと)()の年から、はじめて貴い(みことのり)をうけたまわり、膳臣(かしわでのおみ)(うじ)を賜って、天皇の御食に斎み慎んでお仕え申し上げてきた。いまの朝廷の御代、(みずのえ)(いぬ)の年に至るまで、続けて天皇の御世として数えれば三十九代、年として数えれば六百六十九年を重ねてきたのである。[延暦十一年]

ここでは(うわ)(はるの)(みこと)下春(したはるの)(みこと)は料理の神様といってもいいようです。名前に当てる漢字も上腹(うわはら)下腹(したはら)となっています。音が似ていればどのような漢字を当てても構わないのが昔の習慣ですから同じ神様とみていいでしょう。伴信友もそうみています。

ところで、戸隠宝光社の表春命の御神徳は技芸、裁縫、安産であり、婦女子、子どもの神様となっています。実は、これはお地蔵さまの御利益です。本地垂迹説で、お地蔵さまイコール表春命ということに明治まではなっていました。明治の神仏分離で本地仏のお地蔵さまは善光寺に行ってしまいましたが、御利益だけは残ったのです。表春命が婦女子、子どもの神様だとすると、その御神徳に料理を付け加えてもいいかもしれません。

 二 九頭龍と仏の物語                                              目次へ

「九頭龍と仏の物語」と題しましたが、仏さまはあまり登場しません。戸隠は江戸時代まで(けん)(こう)()というお寺でした。平安時代末期から比叡山の末寺と位置づけられ、修験の行場であるとともに、早い時期から大般若経の写経も行われ、般若心経の木版も残っていて、出版活動までしていたようです。江戸時代には東の比叡山である東叡山として上野の寛永寺が徳川家康の側近の天海僧正によって開かれ、その末寺に移ります。戸隠の顕光寺は家康に千石の領地を寄進され、寛永寺が派遣する別当によって支配されていました。

制度的には、このようにまったくもって仏教寺院でしたが、不思議なことに、御利益を語ったものなどで仏が活躍する物語はさして見当たらないのです。九頭龍は手力雄命の荒魂であるというのが明治になってからの主流ですが、江戸時代までは九頭龍権現の本地は弁才天とされていました。しかし、弁才天として活躍するのではなく、九頭龍として活躍するのですから、仏教の影響下に九頭龍が活躍するとはいえ、仏の影はちょっと薄いといえます。

 

九頭(きゅうとう)一尾(いちび)()の出現                                             目次へ

戸隠信仰の中心は九頭龍信仰です。しかし、この九頭龍という神様は初めから九頭龍といわれたのではありません。最初は九頭一尾の鬼として登場します。

戸隠神社は江戸時代までは顕光寺といわれたお寺でした。その顕光寺もその前は戸隠寺といわれていたようで、その戸隠寺の縁起を載せた書物に『()()()(しょう)』というものがあります。そこに九頭一尾の鬼が登場します。ただ、鬼といっても現代で定番の、角や牙を生やし、虎の皮の(ふんどし)をした人間型の鬼ではありません。昔は、異形の怪物はみんな「鬼」といいました。九頭一尾の鬼は、頭が九つある蛇の怪物ということです。

『阿娑縛抄』文永一二年・1275年完成(『大日本仏教全書』第六十巻より)

隠寺   (にん)(めい)天皇(てんのう)の御代

嘉祥(かしょう)二年頃、学問修行者(がくもんしゅぎょうしゃ)飯縄(いいづな)山で七日間、西の大嵩(おおやま)に向って祈念した。独鈷(とつこ)(なげう)つと飛んでいって()ちた。すぐに行ってこれを見ると、大きな石屋(いわや)があった。その場所で法華経を唱えていると、南方から臭い風が吹いてくる。そして九頭一尾(きゅうとういちび)の鬼がやって来た。
 「誰が法華経を唱えているのか。以前に祈った者は、自分が聴聞(ちょうもん)に来ると、自分の毒気の風に当たって、こちらには害心が無いのに、触れる者は皆死んでしまった。自分は前の別当(べっとう)で、貪欲なままに虚しく施物(せもつ)を用いたので、そのためにこのような身になってしまった。ここでこのように法を破り過ちを犯すことが四十回余りになる。自分も法華経の功徳(くどく)によって、最後には菩提(ぼだい)を得たいものである」。
 学問は言った。
「鬼は形を隠せ(鬼者隠形)」。
 学問の言葉に従って、鬼は元の所に戻った。そこを名づけて龍尾(りゅうび)という。鬼が石屋内に籠り終わると、学問は石屋の戸を封じて、地中に向かって声高に唱えて言った。
 「南無常住界会聖観自在尊三所利生大権現聖者」。
 それでこの山の名を戸隠寺ということになった。その理由は龍尾鬼を石室の戸で封じて、それから建立した故である。また、飯縄山の前に戸を立てたようであるからだ、ともいう。

この後に、石殿や御祭処が列記されていますが、それは省略します。書かれている内容を書かれている言葉通りに解釈するのも面白いですが、そこに潜む裏の意味を考えてみるのも愉快です。蛇は山の神といわれ、山に修行に入る修験者に災いをもたらすとされてきました。この縁起もすぐれた修験者が山の神を屈服させる話として読んでみてください。

九頭一尾の大龍の登場                                             目次へ

『阿娑縛抄』では九頭一尾の鬼でしたが、もっと後の文書では九頭一尾の大龍といわれるようになり、戸隠山を守護する役目も担い、話も長く複雑になり仏教化も進みます。寺の名前も戸隠寺から顕光寺に変わります。なお、大龍といいますが、蛇の怪物を龍といったのであって、手足もあって空を飛ぶ龍ではありません。

『顕光寺流記序』 長禄(ちようろく)二年(1458年)(『新編信濃史料叢書 第四巻』より)

嘉祥(かしょう)三年(850年)、学門行者はまず苦労の末に飯綱山の登頂に成功します。次はそれに続く縁起の中心となる部分です。

日が暮れたが、学門行者は興奮冷めやらずに、地相を占って西窟に居を占め、礼拝、懺悔(ざんげ)した(修法のための壇である瑪瑙の座が今もある。香花が供えてあったり、あるいは読誦し、修行する者がいる。
 その後、金剛杵(こんごうしょ)を投じて、誓って言った。「未来に渡って仏法が繁昌し、すべての生きものの福を豊かにするように。地に着いたならばただちに光を放て」と。(きね)の後をずっと追いかけていくと、その杵ははるか一百余町を飛んで、宝窟に留り光明を放った。
 ここに猟師がいた。杵の光に驚いて急いで逃げ出した。私に遇ってその事を語った。私はもとよりこれを知っていたその猟士は今の猟士の護法神である。私は杵の光を尋ねて行き、この洞に止まって、地主の神を呼び出すべく深く祈念すると、声が地の底にあって、高声に唱えて言う。「南無常住界会大慈大悲聖観自在四所本躰、三所権現放光与楽」云々。
 この声のまだ終わらないうちに、聖観音の像が、光が遠くから尊容を照らす中、赫奕(かくえき)として一?四茎の蓮花に坐して、聖観音・千手・釈迦・地蔵がたちまちのうちに湧出した云々。
 歓喜の涙を流し、仏を深く信じて仰ぎ、頭をたれて、経を読み、法文を唱えていると、その夜におよんでにわかに南方から臭い風がむんむんと吹いてきて、九頭一尾の大龍がやって来て言う。
 「喜ばしいことだよ、行者。お前がこの窟に来て、錫杖(しやくじょう)振読(しんどく)し、六根懺悔(ろつこんざんげ)四安楽(しあんらく)の行をなしたので、我が毒気はみんな無くなり、もう害をなすことはない。すぐ近くに来い。じっくりとお前に話そう。
 当山は崩壊することすでに四十余回である。我は寺務を行うこと七度、最後の別当澄範である。仏物をないがしろにしたので、?(へび)の身になってしまった。ものすごく長い、長い年月を経て、今や業障(ごうしよう)が蛇の(うろこ)となったが、錫杖(しゃくじょう)ならびに法音(ほうおん)を聞いて()(だつ)を得た。それで未来永遠にわたり此山を守護することを誓おう。お前はしかと菩提(ぼだい)(しん)をもって、早く大伽藍(だいがらん)を建てよ。
 さて、峯に五丈の白石がある。面は白い壁のようで、金剛界(こんごうかい)胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅(まんだら)を顕している。それで両界山(りょうかいざん)という。前に宝石の密壇がある。迦葉仏(かしょうぶつ)が説法し修行した所である。すべてで三十三所の窟がある。大慈大悲の観世音菩薩が現れてお会いできる。菩薩は昼夜を問わずに万民を擁護し、悪業をもったわれわれ生き物を救ってくれる。それで一度この山に登れば永く死後の世界での苦を逃れ、苦しい運命もまたよく変えることができる。」と、言い終わると、九頭一尾の大龍は僧侶の法式等を定めて本窟に還った。
 その時に大盤石(だいばんじゃく)をもって本窟の戸を閉ざして籠もったので、人に会うことは出来ない。それで戸隠山と名づけたのである。本当のところは手力男命(たじからおのみこと)が天の岩戸を隠して置いたので戸隠という。その戸は今もある。また金剛杵の光を顕わしたので顕光寺という。その後、九頭龍権現といい、毎朝寅刻御供をお供えすると、天下の吉凶を示す。それで仁祠(じんし)を敬信し、仏法を盛んにし、堂舎が建ち、禅定(ぜんじょう)を修する僧侶は神の威徳を仰ぎ、すなわちここを結界の地とする。修道上の妨げとなる煩悩障、業障、生障、法障、所知障の五障の雲霧を払い、浄行の澄み切った月のような心を磨く。まことに諸仏が、思いのままに救いのはたらきを行う山、四接能弘(のうぐ)の処であり、ここを本院という。
 その後、二百年ばかりたった後冷泉院(ごれいぜいいん)の御代である康平(こうへい)元年(一〇五八年)八月二六日に、本院から五十町ばかり下の大木の梢に光りを放って輝くモノがある。人々が不思議に思ってこれを見れば御正体(みしょうたい)であった。その時、十二、三歳の女の子が身もだえして苦しみ、地に横たわって気絶した。どうしたのかと問うと、「我は当山三所権現の先駆けで左方に立つ地蔵権現である。それで、あそこは結界の地であって、女人は閉め出されている。それゆえ仏様の思いと違い衆生(しゅじょう)済度(さいど)の誓願もままならず人々を救うのも(まれ)である。できればここに堂を建てて我を安置しなさい」と。人々は疑って、「本当に神託ならばここにいる僧俗の誰かの袂にお移り下さい」と申し上げ、それぞれ強く念じる中に、一人の坊さんがいた。その袖に飛び移ったので、これを拝すると、地蔵薩?の尊像であった。日をおかずに社を造り庵室を建てた。求法房がこれである。御正体が飛んできた所を「伏拝(ふしおがみ)」という。初めは福岡院といっていたが後に宝光院というようになった。
 その後また三十年ほどして後堀川院の御代、(かん)()元年(一〇八七年)四月八日、時の別当が元来当山は三院であるべきとの瑞夢(ずいむ)をみて、両院の中間に四神相応(しじんそうおう)の地を撰び、二院の房舎を分けて一院を創立した本院より極楽坊・自在坊、宝光院より西明坊・東光坊。釈迦権現を本尊とする。富岡院という。今中間にあるので中院という。

(以下、三十三窟の説明などが続くが略す)

『阿娑縛抄』の解説で、蛇は山の神といわれ、山に修行に入る修験者に災いをもたらすが、すぐれた修験者によって屈服させられる話として読むことが出来る、といいましたが、この『顕光寺流記並序』ではさらに仏教化が強まって、山の神は仏の山の守護神にまで変化しています。戸隠寺の時代には、中院や宝光院はまだなかったのかもしれませんが、ここでは中院や宝光院の出来た由来まで記されています。湧出(ゆうしゅつ)した仏の内、聖観音は奥院(本院)の、釈迦は中院の、地蔵は宝光院の本尊とされています。後に、聖観音が垂迹したのが奥院権現の手力雄命、釈迦が垂迹したのが中院権現の思兼命、地蔵が垂迹したのが宝光院権現の表春命というセットが成立します。本地垂迹説といって、本地である仏が垂迹して日本の神である権現になるというのが当時の考えでした。

九頭一尾の鬼は戸隠という土地の原初的な神であったと思われますが、次第に仏教色を帯びて解釈され、さらには神道の神の手力雄命とも関係してきました。

 (えん)小角(おづの)九頭(くず)(りゅう)                                             目次へ

戸隠は修験道の山として発達してきました。修験道というと(えん)小角(おづの)が有名で、山岳信仰の霊山の縁起というと役の小角を登場させてしまう傾向があります。一七二七年(享保一二年)に顕光寺の別当となった乗因は、修験道をおおいに盛り上げようとした人ですが、『戸隠山大権現縁起』を著してやはり小角を登場させます。もちろん、学門行者と九頭龍も登場するのですが、小角を登場さたために相手の九頭龍は二度登場することになって、少々辻褄のあわない点もありますが、小角と九頭龍の出会いはなかなか迫力のある場面ですので紹介しておきましょう。

 『戸隠山大権現縁起』一七二七年に別当となった乗因の著(「続神道大系 神社編 戸隠(一)より)

役の行者は大金色孔雀王咒(だいこんじきくじゃくおうしゅ)(きょう)を唱えて身につけるように努め、五方(中央と東西南北)の大神龍王の霊験を祈られて、多くの年月を経た。
 ()(とう)天皇の御代とか、戸隠山によじ登り、戸隠権現の真実の身を拝謁しようとする。群がり生い茂る樹木、狐も兎もその姿なく、そそりたつ岩や洞くつは露が滑かにおりて鳥でなくては飛び回れない。しかし、優婆塞(うばそく)勇猛にも今少しで頂上に至ろうとする。
 時に、山岳が震れ動いて煙りのような霞が道の行く手を塞ぐ。優婆塞はここで往くにも戻るにも苦しんだ。そこにどこからともなく厳とした僧が現れていう。
 「お前は役の小角ではないか。お前を待つこと久しい。早くこの山を祓い祀り、すみやかに路を開け。なぜここで休みもたもたしているのだ。それでは苦しい修行をし、鍛えた行に耐えた行者とはいいがたい」と。
 小角は笑っていう。
 「僧のお前も怪しい。どうして我が名を知っているのだ。もし地主の霊神のいる所を知っていたら、どうか案内してその所を知らせてほしい。」
 僧はすぐに草道をかき分け小角を導いていう。
 「早く絶頂に登って権現を拝せ。我はお前が長年帰依するところの勝軍(しょうぐん)地蔵(じぞう)である」
といわれて(たちま)ちの内に大光明をはなって茫漠(ぼうばく)として消えた。
 小角は信じる心を深くして、礼拝し、頂上に登ろうとする。
 時に、天地鳴動して風雲が(しゃ)(せき)を降らせるので、小角はじっと意識をとぎすまし眼目を開閉なさった。
 権現は姿を現し、大龍王の身を見せた。山岳は周囲が百余里であるがそれを七回も取り巻き、頭を高妻山の峯に上げていわれる。
 「お前は菩提を強く求め、この山を再興せよ」
 小角は再拝していう。
 「我は誓願によってさまざまな山々を開いてはきたが、いまだかってこのようなめでたく不思議なしるしは見たことがない。今この不可思議な変異を見てまことに心から感動した。しかし、普通の者は、このように天に群がり地に蜷局(とぐろ)を巻く八大龍王の本来の姿を見れば、苦しみ悶えて転げ回り息の根を止めてしまうであろう。出来ることなら悟りを得られなくなったこの像法(ぞうほう)の時代の人々の為に小身となって現れてください」。
 この時、権現は二丈の黒蛇となって百尺の黄地に伏しうずくまった。
 「速やかに本来の居所に帰れ」
 小角がこう唱えると、ただちに霊窟に隠れられた。その封じた修法壇のある場所は今の九頭龍大権現の岩屋である。
 すなわち権現は、内に菩薩の行を密かに行い、外には神龍となって姿を現し、もろもろの生き物にすぐれた果報を与え、人間、鳥、獣を夜昼となく擁護している。
 もとより福寿(ふくじゅ)を増大させる神であるから、効き目はいよいよあらたかで、厳かで徳の高いことはますます盛んである。深く仏を信じる者には短命を転じて上寿を、貧窮(ひんきゅう)転じて厚福を与える。官を求め子を求め、また智を祈り道を祈り、商売の利益を願うならば、速やかにこれを与え、農業の豊年を願うならば、五穀成就の御神であって万民の安らかな生活を叶えてくださる。

役の行者が戸隠山に登って九頭龍に会ったのは、七世紀末の持統天皇の時代と設定されています。別当の乗因が修験道の山の開山に定番の役の行者の話を付け加えたものと思われます。

なお、紹介した『戸隠山大権現縁起』の最後の部分に、九頭龍の御利益が列挙されています。長寿、幸福、昇進、子を授ける、智恵と道徳を与えるまでは『顕光寺流記並序』に掲げられた御利益と大方において重なりますが、商売の利益と農業の豊年は江戸時代の『戸隠山大権現縁起』で加えられたものです。このことは、九頭龍は中世までは諸般にわたる御利益の神であって、商売と農業の御利益は江戸時代に加えられたものであることを示しています。

つまり、九頭龍はもともとは山の霊妙あらたかな神であり、水の神、農業の神となったのは江戸時代であることを示しています。

九頭龍権現の霊験                                             目次へ

戸隠の奥院(本院)には、手力雄命と聖観音と九頭龍が祭られていましたが、一般の人々にとっては九頭龍信仰が中心でした。中世までは九頭龍は山の神として「長命と幸いを願うならば、短命と貧窮を転じて上寿と厚福を与える。あるいは官を求め子を求め、また智を祈り道を祈るといったことは、慎み祈る者にはすみやかにこれを授ける。もし病患、急難、呪詛、怨敵に至るまで、頼みを懸けるならばただちにこれを逃れる」(『顕光寺流記並序』)など、さまざまな御利益があるとされていました。

江戸時代になると、九頭龍権現と呼ばれ、本地も宇賀弁財天とみなされて農民の信仰と結びつき、水の神、農業の神としての御利益を発揮していきます。

その御利益宣伝の種本かと思われるものに、中社の二沢家に所蔵される『戸隠霊験談』があり、三十一の霊験談が載っています。信州、越後を中心に、腰が立った、歯が生えた、近火を避けた、子を授かった、病気全快、家内安全、毒虫退散、長生きできたなどなどは伝統の御利益であるが、さらに井戸水が涌くし、種池の水のおかげの慈雨もあります。戸隠の御師さん達はとりわけ川筋を変える瀬引きの祈祷に忙しく、河川工事の神様かとも思われほどです。

『戸隠霊験談』 江戸末か(二沢久昭翻刻「長野」561974年より。見出しは編者による)

子の足腰が立つ

七年ほど前のことであろうか、上野国群馬郡箕輪村(みのわむら)与五郎(よごろう)という者がひとりの男子をもうけたのだが、どのような宿報(しゅくほう)(因果)であろうか、年月(としつき)がたったが腰が立たなかったので父母の歎きも並大抵でなかった。
 しかし、どうしようもなく虚しく年月を送っていたが、この子が十歳ほどになった頃、戸隠山の僧宝蔵院(ほうぞういん)(現宮澤家)恵林(えりん)が折から(だん)()(まわ)りで与五郎の家に泊まったので、父母はその子がかたわであることを深く悲しんで「この子の腰を立たせていただければ、必ず御山へ連れて行って御庭草を踏ませます。どうか権現さまにお祈りください」というので、宝蔵院もあわれに思い、「山に帰ったら、神前でお祈りしてあげましょう。みなさんも深く信心を続けてください」といって山に帰った。
 宝蔵院は山の神前でたいそうねんごろに祈念し御礼守などを送ってやったのだが、翌年も、その地域に出向いたので、その家を訪ねてみれば、その子は人なみに腰が立ったので、父母も子もうれし思いよろこんで出迎え、たいそうにもてなしたということである。

 二十八で歯が生えそろう

二年ほど前であったろうか。当国水内郡吉原村の半兵衛という者の娘で二十八才になったけれども、歯が二枚ぎりでその他は生えてこなかった。たいそう醜くて物をいう事も思うままにならないので、医師などにも頼み、いろいろとしてみたが効果がない。ところが当山の僧の真乗院(しんじょういん)(現奥田家)が(くばり)(ふだ)に回ってきた時、歯が生え揃うようにと九頭龍権現へ祈念を頼んだので、真乗院が深く念じてやったところ、程なくすべて生え揃ったという。

 信心して酒造りがうまくいく

当国合田在の西宮村小林善兵衛という者は酒造を商売としていたが、うまくいかないで年毎に造る酒が悪くなった。七、八年も続いたので今は酒造りの商売もやりがたいと歎いていた。そんなところへ真乗院(しんじょういん)がその土地に配札に来たので、この事を祈念していただきたいと深く頼むので、「それならば毎日神棚へ神酒(しんしゅ)を供え、深く九頭龍大権現を念じなさい」といって祈念してやったところ、それよりは年ごとにの酒の出来の悪いこともなく家内も安穏になったのでいよいよ信心を怠らなかったという。

 井戸堀で水勢とばしるようにわきいでる

以前、当国の山中の四ツ谷村で日頃使用する井戸を掘ったのだが、水が出ないので残念に思っていたが、ちょうど戸隠の真乗院(しんじょういん)がその所にみえた。出水の祈念をしていただきたい、と熱心に頼まれたので、院は断りがたく九頭龍権現に祈ったところ、誦量念数(ねんじゆ)も終らないうちに、水勢がほとばしるようにわき出したので、みんな不思議なことだと思った。

 種ヶ池の御水

さる申年(さるどし)の秋の頃、越後国頚城郡(くびきぐん)藤崎(とうざき)百川(ももがわ)の両村から奥院谷安住院(あずみいん)(現安藤家)へ請雨(しょうう)祈祷(きとう)をたのみに来たので、深く祈念して(たね)(いけ)の御水を与えた。この水は(たね)(みず)といって道中でも下におく事は出来ず、一七(ひとなの)()施主(せしゅ)の方に置て祈り、七日経ったら当山へ持って帰り種ヶ池へ戻す事になっている。百川村では三日半(みっかはん)祈ったが空は晴れ渡り雨の降る様子もみえなかった。
 それでも藤崎村から御水を受け取りに来たので、村境の川岸まで百川村の者たちが御水を持参し、ここで藤崎の者へ渡したところ、たちまち雲が涌きだしおびただしく雨が降りだしたので、みんなして喜びあった。しかしこの両村の外は少しの小雨だったのが不思議である。

 虫歯の痛みやむ

()(えい)二年正月十日の夜、当山門前の和兵衛という者が虫歯で顔もはれ上り痛もはなはだしく苦しんだので故安住院(現安藤家)を頼み祈念してもらったところ、その夜、夢うつつのうちに見慣れない異様な人が来で何ともしれない一握りほどの物を呉れて、これを食べれば痛はやむであろうという。
 うれしく喜んでこれを食べたところその味わいはこの世の物とも思われず結構なものであったが、ただちに痛みが止んだの不思議の事に思い、いよいよ信心をした。けれどもその時は顔のはれは直らなかった。

 火災の難を逃れる

弘化(こうか)五年(さる)年の事であったが、越後の国の椎谷(しいや)阿達(あだち)六兵衛という者、当山の権現をつねづね深く信仰していたが、近辺より火事が出て風もはげしかったので家が多く焼失した。しかし六兵衛がひたすら権現のご加護を祈っていると、ちょうど彼の家の所で風がやみ火も鎮まって危ない難をのがれたので、いよいよ権現を信仰した。

 九頭龍権現に子を授かる

奥州(いわ)()(だいら)城下(ママ)五丁目のかざりや長蔵という者は、子がないのを歎き九頭龍権現に祈ったところ、すぐに男子を得た。この子は成長するにしたがい、誰が教えたというのでもないのに、九頭龍権現を信仰し、長蔵が座敷に常にかけて置いた九頭龍権現の尊像の前へ、いつでも這っていって拝礼する様子は、まことに不思議であったという。

 用水の水が涌く

先の弘化(こうか)丁未(ひのとひつじ)の年、当国で大地震があった頃、越後国魚沼郡(うおぬまぐん)真戸(まつど)(ぐみ)芋坂村大淵治左衛門という者は、田地養いの用水が止まって少しも出ないので耕作が出来ず困った。それで当山摂善院(現高山家)に頼んで一千巻の般若心経を読誦(どくじゅ)し種ヶ池の御水を貰っていって用水の口に入れたところ、たちまちに水が涌きだして安心して耕作が出来たという。その後、初穂の米を持ってお礼参りに登山した。

 三年詣でて業病が治る

当国高井郡中野在に悪い病を患っている者がいた。もとより業病であったので医療でどうこうできるものでもなかった。九頭龍権現は生身の御神で霊験の著しいことは他の神以上であられるので、この御神を信心すべきだと思いたって、三年の間怠りなく月ごとに参詣した。
 冬になれば雪が八、九尺も積り、道も踏み分けがたかったが、なお勇猛の信心を起し怠りなく参詣したところ、次第に快方に向かい、三年目という時には、ついに全快して今は少しも常人とかわる事がない。

 瀬引(せびき)の法のありがたさ

昔、松本領松川組の高瀬川が細野の村へ流れ込み、多くの人夫を使って川普請をしたけれどなかなか人力では復旧出来なかった。それで当山の宝泉院(現中谷家)へ瀬引の祈祷を頼みに来たので、宝泉院主がその地へ行って見たところ、水勢がはげしく復旧は容易ではないと思われた。
 しかし、このままではすませないと深く祈念し、「七ヶ年に一度づつこの場所で瀬引の法を修し仏の妙味を奉るべし」と誓い、瀬引の法を修したところ、たちまち川瀬は元のようになって再び田畑も元に復した。その時は何の被害もなかったので、その田地を神田と称して年ごとに初穂籾子を宝泉院に納め、法要を頼んだ。
 それからは七年目ごとに怠ることなく瀬引の修法を行ったのに、長い年月の間、何の被害もなかったので、近頃、一度怠ったところ翌年の夏に再び川瀬が大層に切れて、村の家も田地も大変な損害を被った。領主から多くの人夫を出して普請なさったがなかなかうまくいかない。

その土地の者たちは修法を怠ったことを大いに後悔して、宿坊宝泉院へ泣き込んで来たので、宝泉院主も気の毒に思って行ってみると、川瀬の荒れようは並大抵ではない。そこで直ぐさま祈念し、二日の間法要を行い、瀬引の法を修して、その夜に瀬引石を埋めると、大層に水の鳴る音がした。人々が不思議に思っていると、にわかに雷が鳴って並み大抵でない大雨となった。翌早朝に起きて出てみると川瀬は元のようになっていたので、みんな喜んで御礼の法要だとしてその日の内に宝泉院を頼んで村中そろって信心をした。

 (うろこ)を生じた女を助ける

越後国の、山の房村のある者の妻が、どうしたことか大きな蛇を殺した。たちまちのうちに心地が常でなくなり、日がたつままに全身に(うろこ)が出来て、時々身を震い立てるので、鱗が浮上り耐え難く(かゆ)くなり、掻くと小さな(かさ)などの皮のように落ちて見苦しい様である。あちこちで祈念してもらったが一向に効果がない。ところが、当山の僧が配札に行ったのを頼りに九頭龍権現へ祈念を願った。この僧もあまりなことに思い、深く祈念してやると、日ならずして心もちは平生のようになり、鱗も残らず落ちて常人のようになった。この事を見聞きした人は不思議に思わない者はなかったという。

 祟りを除く

当国の大町中細村のある者はたいそう富んだ者であったが、ものの祟りがあって不幸の事だけがうち続いた。嫁を貰うのだが何人となく気が狂い死んでしまう。いろいろと災難除けのまじないをするが、不幸はやまないで、家も貧乏になり歎いていた。しかし、ふと当山権現のあらたかなる事を思い出して、祈念を頼み、自身も深く信心すると、速やかに祟りは消え失せて家内安泰となったという。

 荷積の川瀬が元に戻る

上州倉ヶ野宿の問屋の須賀庄兵衛と薫新右衛門(この組は七人)は、家の前に川があって昔からこの川から荷物を船に積み出していたが、一年前に洪水があってこの川の瀬が八丁余りほど向こうの方にいってしまった。それで毎日取り扱う多くの荷物を人や馬で八丁ほど運んだのでおおいに難儀し、川の瀬が元のように家の前に来るようにと当山徳善院(現極意家)へ瀬引きの法を頼み祈念して貰った。程なく川の瀬が元のように家の前に来たので、霊験のあらたかなことを喜び、ますます信心したという。

 貰い火を防ぐ

去る弘化(こうか)(ひつじ)の年、上州世良(せら)()の高橋左弁次という者が、ある修験者に年の吉凶をうらなわせると、火の祟りがあるというので気にしていた。毎年当山よりも御籤を頂いてきたのだが、この年の(くじ)
  有物不周旋 物があってもうまく回らない
  須防損半辺 半分も損するのを防ぐのがよい
  家郷煙火裏 家は火災の恐れがある
  祈福始安然 福を祈れば安然である
とある。このような籤であったのでいよいよ心配していた。宿坊常楽院(現水野家)が関東の檀家を回り、帰り道に、左弁次の家へも立ちよったので、右の次第を話し、たいへん恐れて火防の祈念を願った。それで山に帰って後、奥院の神前でねんごろに祈念し、火防の札を送った。
 その年の六月の頃、左弁次の隣家から火が出て、風もたいそう激しく自分の家の方へ吹くので大いに驚き、これは人の力ではどうにもならない、とひたすらに九頭龍権現を念じていると、たちまち風向きが変わって路も無事だったので、誠に権現の利生であるといよいよ深く信仰した。

 井戸の水が湧き出る

当国松本領の大町在大原村の孫左衛門という者が分家をした。山里のことなので、家を作る地所はたいそう高い所で井戸を堀っても、一滴も水が出ないので朝晩の飯を炊くにも困った。
 当山常楽院(現水野家)へ出水の祈念を頼みに来たので、ふかく祈念し、出水の御札と奥院のみたらし川の石一つを加持してやり、井戸の中へ入れさせるとすぐに清水が涌き出したという。

 山崩れの出水を防ぐ

同山辺組金井村は武石(たけいし)(とうげ)の麓にあって(この峠は六里ほどある)、長雨ごとに遠近の山崩れの水が押し出してきて難儀していた。十年ほど前に特に大雨があってたいそう山崩れの水が出て、田畑は勿論人家なども押しつぶしひどく難儀した。そこで村中で相談して当山常楽院(現水野家)へ川除け、山除けの祈念を頼みに来たので、深く祈念し御札など与えたところ、それからはどのような大雨でも一向に心配することがない。それで村では毎年怠ることなく代参登山を続けている。

 洪水がそれる

武州川越在の下冨村の弥五平は水車を家業とする者だったが、三年ばかり前だったか、たいそうな洪水で秩父の方から水が出て来て、逃げる間もなく弥五平の家のそばまで押し寄せて来た。とてものことどうしようもないと家のそばにあるくぬぎの木に九頭龍権現の御影をお掛けし、心に念じると、不思議に弥五平の家の際から水はすぐにそれて押し流れていき、家内に怪我もなく家屋敷も損害がなかった。
 たいそうにありがたい事に思い、弥五平は貧しい者であったが、毎年怠ることなく参詣をした。中院谷正智院(現二沢家)の檀家である。

 九頭龍権現の御残供で安産

天保(てんぽう)年間の事であった。下総(しもうさの)(くに)葛飾郡(かつしかぐん)宝珠花町の駕寵屋彦七という者の妻が懐妊したのだが、これまでしばしば難産で難儀したので、この度も心配していたのだが、当山宝光院谷の普賢院(現築山家)より檀家廻りにきた僧に安産の祈念を御願いした。僧が「臨月の一日の朝、清い水でこれをいただきなさい、きわめて安産になる」といって九頭龍権現の御残供を与えたので、たいそうよろこんで大切に神棚へしまって置いた。
 数ヶ月して宝珠花町に出火があって彦七の家も焼失したので、取ものもとりあへず騒いでいたが、火が鎮まって後、彦七の妻は「家の焼失は自分だけでなくそういう巡り合わせだから仕方もないけれども、かねて頂いて置いた戸隠山の御供を失ってしまったことはたいそう残念だ。この度もまた難産であろう」と、ふと思った。深く歎きながら帯を締め替えたのだが、何やら帯の間から落ちたので取り上げてみると、頂いておいた御供である。数月前にいただいて神棚へあげて置いた御供が、帯の間にあるのは誠に不思議の事だと、あたりに居合せた人々までも奇異に思ったのだった。
 そして僧の教えたように臨月の(さく)(じつ)に浄水を汲んで飲んだところ、この度は安産であったので、いよいよ九頭龍権現を信敬した。この事を見聞した近辺の人々も多く信心を起して、年々当山より札守など頂く者もある。

 御社を勧請して家が栄える

越後の国の蒲原郡上壱分村の神田伴兵衛という者は、どのような因縁であろうか三年の間に当山の霊岳、宝窟、堂塔、仏閣を三度夢に見た。あまりに不思議だと思って、わざわざ参詣し、すべて拝観したところ、夢に見たのと少しも異ならないので、いよいよ奇異に思い、自身の屋敷の内に当山の御社を勧請し神像、仏像に至るまで彫刻させて信心した。
 年月がたつにしたがって家が富み栄えたので、誠に権現の御利益はたいそうなものだと怠ることなく信仰し、今ではそこを戸隠の分窟と称している。当山の宝光院谷法教院(現小谷家)の檀家で、年々の檀家廻りの時はかならず伴兵衛の所に逗留するとのことである。

 毒虫退治

武州岩槻(いわつき)の城下新曲輪(くるわ)町の善太郎という者の庭の柏の本に、「しなん太郎」という毒虫がおびただしく枝葉も見分けがつかないほどについた。善大郎は当山から頂いていた虫除の御札を竿の先にはさみ、その木の下に立てておいたところ、たった一夜のうちにことごとく落ちて死んだ。善太郎は普賢院(現築山家)の檀家である。

 洪水の難を逃れる

下野国志賀郡鍋山村の石川久蔵という者は、年来当山権現を信仰していたが、去る弘化三年(うま)の年、この辺りは大洪水で田畑は多く損害を被ったが、久蔵の家の者は全員で垢離(こり)をとり、水の押し来る所へ出て、一心に九頭龍権現を念じると、たちまち水の流れが変わって、久蔵の田畑だけは縄張りをしたように無事に残って損害もなかったので、誠に不思議な思いがして、いよいよ深く信心をした。久蔵は普賢院(現築山家)の檀家である。

 海難中の加護

越後国岩船郡(いわふねごおり)岩船大町の石栗彦左衛門という船持は常々戸隠山権現を信仰していたが、ある時、北海でにわかに難風が起こり、連れだっていた船はことごとく転覆してしまったので、乗員たちは一心に戸隠権現を祈った。すると船はただ走りに走り、しばらくして風が静まったので見ると屏風(びょうぶ)を立ち並べたような岩の間に吹き入れられ、海上はいまだ風が止んでいなかったがここは風があたらない。しばらく休んで風が静まる日を待って岩間をこぎ出し、無事に着岸したいう。
 容易には船の出入りもできない岩石の間に、難風のままに船が無事に入ったのはひとえに大権現の冥護(みょうご)の力だといって、御礼の参詣に登山して宿坊の安住院(現安藤家)へこの話をした。

 (おし)の子の口が治る

摂善院(現高山家)の檀家の飛騨国益田郡焼石村の太郎兵衛という者の伜の鶴三郎は、生れつき唖で物を言うことが出来なかった。父母は大いに歎いてひたすら神仏の加護を祈るより外はなかった。それにつけても戸隠大権現は生身の御神であって霊験ことにあらたかなることを聞いたので、一心に祈るには「我子の唖は定業ではあるけれども、大慈大悲の神力をもって言葉使いを普通の人のようになされてください。この子が十五歳までの内に必ず御礼参りに連れて来て、またこの子一代の間は、毎年御膳を献備し申し上げます」と深く願を掛け、朝夕祈っていたところ、翌年になってこの子はふと言語を発してその後は人人並みにものをいうので、深く信仰し、近頃参詣をしたのだった。

 涸れた池から水が出る

弘化丁未(ひのとひつじ)の年、信濃国で大地震があった時、同国の松本領青鬼(あおに)村で、用水掛りの池水が涸れて水が一滴も出なくなった。田地の植えつけが思うようにならないので村方三役はたいそう苦労をした。
 同年の秋に当山宝光院谷の衆徒玉泉院(現楠川家)が檀家廻りに来たので村中で相談して出水の祈念を頼んだが、池中に水気が少しもなく乾いているので、玉泉院もどうも不安に思ったけれども、ひたすら頼むので放っておけず、その池の中へ祭壇を設け、九頭龍権現を深く祈った。くわえて茶碗に清水を汲んで祈祷し、池の中の水口の穴へ入れた。
 そして「皆さんも深く信心なさいませ。信心の深い方の田はかならずご利益がありましょう」など話している内に、はやくも水音がするので人々が不思議に思って池の中をみれば、水勢がたいそう激しく水口から涌き出るので、みんなして驚き、不思議に思わない者はなかったという。

 地震による山崩れを逃れる

同じように大地震の時、善光寺在モズ原村で誰だかわからないが、「ひたすら戸隠大権現を念じて逃げろ。早く、早く」と大声で呼び歩くので、何事であろうとみんな外へ出た。そこに間もなく大地震でうしろの山が崩れ、村中のこらず埋れたが、この村の人は怪我人は一人もなかったという。

この地震の時にいろいろと霊験の事も聞いているが、村の名を忘れたり、あるいは人の名を忘れたので、今は書かない。後編にゆずる。

 川除(かわよけ)の法で川筋を変える

越後国の頚城郡(くびきぐん)名立川は時々川瀬が荒れて丸田村の田畑が多く損害を受けたので、文政の年に戸隠山奥院谷安住院(現安藤家)方へ頼みに来て、名立川の川筋を山の麓へ引き直していただきたいとのことなので、その地に行って見ると、これまでの川瀬よりも高い方へ引き直しくれとのことなので、容易ではない事ではあるが、川除の法を修したところ、たちまち川筋が山の麓へ廻ってその後は心配がなかった。しかし弘化(こうか)の年の間にまたまた川下より堤が切れて田畑へ川が入り込んだので、再び頼みに来たので、またその地に行って祈念したところ、また元のように川筋が治まり、その後はまた困ることはなかったという。

 川除の法で水害を防ぐ

甲州巨摩(こま)(ぐん)駒井村の内絵見堂組立村組韮崎宿の辺は信州諏訪の方から落ちて来る川があって、出水の時はおりおり田畑や人家等に損害を与えるので、多くの人夫でいろいろ普請をしたけれども、なおも水害がやまなかった。それで戸隠山の智泉院(現武田家)へ頼みに来たのでその地域へ行き、これまでの川筋より半丁程東の方へ瀬引を行い、くわえて毎年にその地域に行って川除の法を行った。それからは、それ以上は水の心配はないということだ。

 蛇の祟りを封ずる

越後国の頸城郡(くびきぐん)松之山管前村の関屋瀬兵衛方で、ある夜召使いの者が座敷に用事があって入ろうとすると何か額にあたった。妙に思いながら用をはたして出ると、またまた何か冷ややかなものが光のように額に当たる。火を(とも)してみると六尺余の大蛇が燕の巣に入っているので捕らえて前の谷へ捨てた。しばらくして鶏がしきりに鳴くので行ってみると、今捨てた蛇が台所の鶏の巣を襲っているので、大いに腹を立てて殺してしまった。
 その夜から瀬兵衛の伜の菊治が発狂して、さまざまに祈念し療治をするけれども少しも効果がなかったのだが、戸隠山宿坊摂善院(現高山家)を頼み祈念して貰い、また一代の間、毎年御膳を献備して奉ると誓ったところ、たちまち狂気が治った。ところで先に殺した大きな蛇の死骸は家の前の田の辺にありながら、庭前にたいそう小さい蛇が死んでいた。本当に不思議なことである。

 困難であった沼の水が引き新田開発に成功

越後國蒲原郡(かんばらぐん)紫雲寺潟(しうんじがた)といって三里に一里の大沼があったのを、享保(きょうほ)年中信州善光寺在米子村(よなごむら)竹前権兵衛という者が越後へきて、この沼から海までの里程二里の間に水道を掘り、沼の水を出して新田開発しようといって、発起人となり金主を集めて普請(ふしん)にかゝった。しかし、土中に岩石があって多分の費用がかかり、一里ほど出来たが多くの金主がみんな破綻してしまった。
 権兵衛は「自分が難儀するのは仕方がないが、多くの金主の妻子までも路頭に迷わせることは心苦しいことである。けれどもこの上は人力の及ぶところではない。戸隠大権現は瀬引(せび)きや川除(かわよ)けに霊験が特に著しいから身命を(なげう)って祈念すればどうして納受してくれないことがあろうか」と考え、それから戸隠山に登り、宝光院谷の法教院主(現小谷家)がかねてから知った人であるのでその院を訪ねて詳しく物語った。
 「心願成就の上は心を尽くして御礼いたします、何卒(なにとぞ)普段のよしみにこの度の難儀をお救いください」と、泣く泣く頼んだところ、「霊験の有無は信心が(あつ)いか薄いかによるものだから、あなたも一心に祈りなさい、私も丹精を尽くしてみましょう」という。力の及ぶ限り供物を整え、一七日(ひとなのか)の間、秘密供を修したところ、満願の日になって風雨が特に激しかったので、これは権現が納受なされたのであろうと院主がいうので、権兵衛はありがたく思い、翌日出立して越後に帰った。
 途中で聞けば、この間の大風雨で紫雲寺潟(しうんじがた)の水道が一夜のうちに海辺まで通じて沼の水はことごとく引いたと、人々がさまざまなことをいう。権兵衛は不審に思いながら夜を日に次いで帰ってみると、沼の水はことごとく引いて平地のようになっているので、おおいに喜びそのまま戸隠山に立ち返って御礼の参詣をした。
 それから新田を二万石開発したので、そのことを代官所よりお城に御届になり、権兵衛へは二十町四方の年貢の免除地を賜り、その功績をたたえた。信州米子の者であるので村の名を米子と賜り、(えだ)(ごう)五十ヶ村の頭立(かしらだち)に命じられ、当時四代目の孫の代にまでなって、なお家が富み栄え連綿(れんめん)と相続し、年々法教院がその土地を檀家廻りするときは宿をしたのだった。

 九頭龍大権現に寿命を授かる

江戸は今戸の伊達寿助という者は、若年の時に松前にいて富商に奉公していたが、ある時、商売の事で多分の損失をしておおいに心をいため、どのようにしようかと思っているうちに流行病(はやりやまい)にかかってしまった。
 治療に手を尽したけれど効果もなく、今は最後と思われたとき、寿助が枕もとを見ると、どこから来たのであろうか山伏のような者が七、八人並んでいる。「皆様は何の用があっていらっしゃったのですか」と尋ねると、「われわれはお前の寿命が今日限りであるのでその事を知らせようと来たのだ」と答える。寿助は大いににおどろき、「私の命が尽きるのはどうしようもない。しかし、私が今、命を終っては主人に莫大な損失を掛けたことが後世までの悔いとなるから、なにとぞこの度の損失を償うまで命をのばしてください」とひたすら頼んだ。山伏は「寿命のことはわれわれの力には及ないことだ。戸隠山の九頭龍大権現を心に念じ、かつ平愈の後、参詣しようとの願を建てれば、四十八才までの寿命を保ち、この度の損失を償い、なお多くの利益を得るだろう」という。
 寿助は大いによろこび、「その事が本当であるならば証拠のため一筆書いていただきたい」というと、「書き残すまでもない。どうして嘘などいおうか。しかし、本当かと思う疑いの心があるならお前が書いておけ」と答える。「証書を自身で書いても意味がない。どうか一筆書いていただきたい」と強いて願うと、「では書いておいてやろう」というので紙と筆をとりよせた。その後はただ夢のようでどうしたことであろうか寿助も覚えていない。看病の者は寿助が熱でうわごとをいうとばかり思っていた。しばらくして寿助は意識が戻り、「今の山伏はどこへいらっしゃったか」と看病の者に尋ねると、「そのような者は知らない」という。
 寿助も不思議に思い、「それでは私の命も今はこれまでか。それにしても戸隠山九頭龍大権現を念ぜよとの教え、どのような神さまでいらっしゃるか知らないが、もしや平愈の事もあろうか」と思って教えのままに願を立て心に念じていた。すると、それから追々快方に向かって、程なく平愈したので、大いによろこびなおも朝夕に九頭龍大権現を念じていた。
 そのうち商買のことで先の損失に倍する利益を得たので、「これもひとえに九頭龍大権現の冥護(みょうご)、御礼の参詣をしよう」と思ったが、どこに鎮座なされている御社とも分からないのでむなしく時を過していた。
 その後、江戸に出たのでまずこの事を人に尋ねると、「信州である」と教えるので参詣しようと思い立った。しかし、四十八才までいただいた寿命なので最早残りも少い、どうしたものであろうかと悲しみながら、とにもかくにも権現の大慈大悲の御誓願に頼らなければ叶うものではない、たとえ受け入れてもらえなくとも心の限り願ってみようと決心した。
 そして木綿八十八反を買いととのえ、これを命綱と思い、江戸を立って道筋の霊仏霊社へ一反ずつ奉納し、残りを九頭龍大権現の宝前へ納め、先年の御礼を申しあげた。そして、「それについても四十八才の寿命は残りすくなく、凡夫のあさましさ、死後に妻子はどうなるだろうと思うと寝食も落ち着かない、なにとぞこの上の大慈大悲で八十八才迄の寿命をもたさせていただきたい」と人間にむかっていうように泣く泣く、操り返し操り返し御願いしたのだった。
 その夜は中院谷正智院(現二沢家)に宿をとり、日々の祈念をたのみ年ごとに御札も頂戴いたしたく、かつ江戸出府のみぎりはかならずわが家に宿をお取りください、とねんごろに約束して帰った。それからはいよいよ信心堅固にして、良きにつけ悪しきにつけてもただ九頭龍権現だけをを念じていたのだが、信じる力の深さ、神に通ずること虚しくなることもなく、四十八才の年も無難にすぎ、子孫を増え、家も冨み栄へ、最近、天保年中に八十八才で命を終えた。妻はいまも存命である。

 裏山の登拝

一不動から五地蔵山、高妻山、乙妻山と連なる峰を戸隠裏山と行って、修験道の行場でした。その尾根伝いの様子を記した『本朝俗諺志』を紹介しておきます。「我喉を潤すほどの水を汲也」を信ずるならば、実体験ということになり、おおむね他の文献と整合性はありますが、小池と剱ヶ峯の位置が逆のようにも思えます。なお、後世の『遠山奇談』にも同様の話が載っています。

なお、昔の乙妻山は、現在の地図上の乙妻山の高妻山と間の二二九七メートルのピークです。文中の「大日(だいにち)(たけ)」が現在の地図上の乙妻山で、昔は両界山とも呼ばれていました。 

『本朝俗諺志 四之巻廿七 一七四六年菊岡(きくおか)沾凉(せんりょう) 著 早稲田大学図書館蔵より)

廿七 戸隠山

信州戸隠大明神は手力雄命である。社領は千石で、別当は天台宗顕光寺。宿坊も多い。本社の横に九頭龍王の宮がある。世に生神(いきかみ)といわれ、一年間に四十石の御供米を付している。毎日御供所(ごくしょ)で御供米を調理して内陣にお供えすると一粒残らずになくなる。また願いごとのある人が梨を供えるとこれを食べる音が社の外まて聞こえる。
 奥院は大日(だいにち)(たけ)という。坊から七里ある。(せん)(だつ)に従って行くとこの間に拝み所が十三ヶ所ある。五里ほど行くと小池と云いう清潔な清水の湧く池がある。差し渡し四、尺ほどである。ここから先は水は一滴もない。この池に?虫(まいまいむし)ような黒い虫が一面にいて水の面を覆う。(ちがや)で「この内の水を下さい」といって丸く輪を書くと、この虫は左右へ別れ、しばらくの間、輪の内に虫が入ってこない。何人でもひとりひとりにこうである。私は(のと)(うるほ)すほど水を汲んだ。近世、越後の人が寄進した鍋がひとつ、茶碗など置いてある。この水を湧かして昼食などとる。ここまで五里の間、休む所はない。
 ここから七里松原、(けん)(みね)という難所へかゝる。七里松原というのは四十町余り(六丁一里)で山の峰である。左右の谷より五葉(ごよう)の松が生い茂っている。この松は小枝は細く藤蔓のようで折っても折れない。枝から枝にからみつき、藤棚の用である。この上を行く。そこから剱ヶ峯へ上る。誠に剱を立てたようで登りつめて直ぐに下る。頂きの小道は魂が消えるばかりである。これを(しばら)く下ると向こうに大日ヶ嵩がある。
 石仏の(こん)(たい)両部(りょうぶ)の大日二尊は長さ三、四尺で谷を隔てゝ拝む。そこの場所では大きい仏像であろう。そこへは崖が険しく、なかなか人の通れる路ではない。常に霧が深く立ちこめている。大念仏を高声に唱えれば、しばらく霧が晴れて二尊を拝むことができる。この山は朝日夕日には五色の雲が虹のように立ち、山中に金色の光がある。これを来迎(らいごう)という。常に禅定なし(意味不明)。六月朔日から晦日まで先達について登山する。

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