平成23年度企画展

宝物館開館記念企画展
「古代と明日をつなぐ 戸隠講」

戸隠講の成立と発展

『顕光寺流記』は、戸隠寺本院の建設が嘉祥3年(850)年、宝光院分祀が康平元(1058)年、中院分祀が寛治元(1087)年と記す。これらは三院に奉仕する衆徒の寄進のための懸命な活動や信者の支援がなくては実現しないものだった。また、中世の「大般若経」六百巻の写経事業や「戸隠版法華経」版木の勧進も同様であり、そうした動きの中から「講の起こり」の一端が垣間見える。その後、天台宗の僧侶、修験者の先達としての衆徒たちが、様々な霊験譚をもって各地に戸隠権現の信者と講を広めていく。

 

徳川将軍家、大名・家中の信仰と講の広がり

江戸時代初期から奥院では毎年正月、国家安泰、公方様始め御家中安全の御祈祷をし、御籤(おみくじ)でその年の吉凶を伺い、江戸城中へ届けており、戸隠衆徒は大名やその家中、そして各地に講を増やしていった。『戸隠霊験談(れいけんだん)』を始め、九頭龍権現の御利益が各地に伝わり、水神信仰の広がりは、川除・雨乞いの祈祷の増加という形で顕著に表れてくる。また、江戸時代中期から道標建立が多くなり、このころから案内道標を必要とする代参人の参詣が増加してきたことを知ることが出来る。

天保12(1841)年の「三院衆徒分限帳」の檀家数集計は、信者総数80,250人。明治7(1874)年の「倭舞(やまとまい)日記録大全」は、信者総数45,329人並びに長野県下623町村、他県2962町村に講が分布していることを記す。大正7(1918)年「勧農施設報告書」は戸隠講員を285,800人と報告している。

 

変動を経て、さらに明日につなぐ戸隠講

明治維新後、仏教を切り離し神道に一本化された戸隠神社は、同6(1873)年、久山・栗田・太田・京極の四家のみが神官資格を獲得、他の衆徒は民籍編入、帰農を命じられた。戸隠神社は自ら講の再興。衆徒の復権に向けて運動を展開。明治28(1895)年、旧衆徒も講社聚長(こうしゃしゅうちょう)として永世神社奉仕する特権を契約。また、この間、山崩れや火災、あるいは老朽化で倒壊した社殿の造営が相次いで行われたが、それらは資金集めに奔走した衆徒と各地の檀家(講)からの浄財を仰いで行われている。

 千余年にわたって法の灯火を掲げ、信仰をつないできた戸隠神社。そこには衆徒(講社聚長)の活動と講の存在があり、幾多の苦難を乗り越えて講は広がっていった。地域共同体の崩壊が懸念され、高齢化の進む現在、戸隠信仰存続にむけての課題は多い。


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