平成27・28年式年大祭開催記念特別企画展
七年に一度の盛儀
「戸隠神社式年大祭」
『戸隠祭礼図巻』(複製)原本:真田宝物館所蔵〔江戸時代末期〕
◆第1景 戸隠全山の鳥瞰図で、裏山・表山・西岳を遠景として、奥院・中院・宝光院を配しています。 ◆第2景 3本の柱松が鳥居の前に一列に並べられた中院鳥居付近がクローズアップされています。階段を上る衆徒や家来の行列、白山・飯縄・常住大権現を表す幟を担ぐ者、「両界山」と大書した軍配団扇を担ぐ者などが絵に見えます。 ◆第3景 奥の須弥壇を巡る緋の衣や袈裟を着た老僧たちの法華三昧の法会を描き、外陣(前の部分)の板敷では、僧たちが魔を降伏させる降魔の様が描かれています。廻りを取り囲んだ修験行者が手に竹の束を持って床を叩き魔を祓う「祷竹」という神事で戸隠神社と縁の深い関山神社でも行われていました。 ◆第4景 鳥居と広前が描かれ、長刀を持った修験者3人が対決する験比べがアップされ、周囲に大勢の人垣ができています。 ◆第5景 柱松への点火、フィナーレが描かれています。三院の各代表(先達)が弊を持って神前に走り、呪言を唱えた後、その弊を持ち柱松に駆け寄り待機している人に弊を投げ渡し弊を柱松に立て、神が宿った柱松に火をつけ豊凶を占いました。 |
絹本着色大織冠御真影
◆大職(だいしょく、だいしき)は大化3年(647年)に設けられた冠位で、藤原鎌足だけが授けられたので後に鎌足は「大職冠」(だいしょっかん)と尊称されている。 ◆在来の神祇(じんぎ)信仰「神道」に、仏教の影響が及んだ形を神仏習合(しゅうごう)といい、垂迹曼陀羅(すいじゃくまんだら)は、わが国在来の神々を仏教の曼陀羅として表現した絵画。 ◆「垂迹」(すいじゃく)とは、「迹(あと)を垂(た)れること、すなわち衆生を救うために、仏が神の姿に身を代えて、この世に出現することを指していう。」 |
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明治維新による神仏分離政策は、講の衰微、地域の衰微を招いたため、旧衆徒を含む戸隠関係者挙げての運動を展開。明治23年、国弊小社(祭礼の時、国から幣帛を献じられる格を持つ神社)に昇格、旧衆徒の神官復活も認められた。同33年、昇格を祝う臨時祭も催行。大正13年に「大祭」を執行。今日につながる形が整った。
宝光院の柱松 中院の柱松 奥院の柱松
奥院の柱松(現奥社) 中院を象徴する弊竹と、宝光院を象徴する雑木を混ぜ、合致させ、水を司る神様「奥院大権現」の祈祷した御幣を立て、先端に「五穀豊穣」の幟を立て願いをこめます。 |
中院の柱松(現中社) 中社地区の風土を象徴する弊竹(へいちく)と呼ぶ根曲竹を使って四角錐状に組み立て、祈祷した知恵の神様「中院大権現」の御幣を立て、先端に「天下太平」の幟(のぼり)を立て願いをこめます。 |
宝光院の柱松(現中社) 宝光社地区の風土を象徴する細めの雑木を使って四角錐状に組み立て、祈祷した商工技芸の神様「宝光院大権現」の御幣を立て、先端に「景気上昇・商工繁栄」の幟を立て願いをこめます。 |
小川代官日記 江戸期、戸隠の代官は、小川氏と西氏両家が務めていました。しかし、元禄十四年、西勘左衛門がお役御免となり、以後、代官はもっぱら小川一族の役目となります。数年前、元禄時代の戸隠代官、小川六兵衛の日記「日次記」が、豊岡神社(八幡宮)氏子に寄託され、別当見雄の時代の戸隠を知る貴重な資料となりました。 |
戸隠代官、小川家と『日並記』(江戸中期) 小川家旧蔵・豊岡神社(八幡社)蔵明暦三年〜明治五年(一六五七〜一八七二)、戸隠本坊の代官は小川家がつとめています。数年前、元禄時代の戸隠代官・小川六兵衛(金義、小川六右衛門惣領)の日記「日並記」が、同家ゆかりの戸隠豊岡神社(八幡社)に寄託され、別当見雄の時代の戸隠を知る貴重な資料となりました。 ※御子孫徳武武彦氏のご好意により原本を複製、展示させていただきました。小川代官日記『日並記』に書かれていること 戸隠代官、小川六兵衛が元禄十三〜十五年(一七○○〜一七○二=六兵衛十九〜二十一歳)にかけて、記したもので、別当見雄が、小川父子一家をしばしば訪ね泊ったこと。見雄が病気になったとき金義が懸命に看病に当たったこと。別当見雄亡き後、本山寛永寺並びに日光輪王寺から派遣された役人・役僧と本坊との折衝、後任別当赴任までの山内秩序の維持、領内百姓からのさまざまな要求などの対処、無事後任別当着任まで、その任務を果たしたことなどが綴られています。元服後、代官家当主となった小川六兵衛が。先代別当亡き後の戸隠一山が混乱に陥らないよう最善を尽くし、次々と発生する課題に冷静かつ的確に対応した様子が伺えます。
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菊御作剣
平安時代の作と伝えられる直刀で、戸隠神社御神宝のうちもっとも貴重な神剣である。 |
二つの宝印 戸隠に伝わる御印文 戸隠山宝印 その形態は手の握り部分が丸く、捺印した印に朱色が残っている。寛保三年(一七四三)の『奥院御宝物帳』に載る「宝印一」に相当すると思われる。 牛王宝印の戸隠版と云うべきこの刷り物は方々に残っている。例えば、広島の覚法寺と云う寺の本尊の胎内に入っていたといい、同像は寛文七年(一六六七)発願と言う。また、和歌森太郎氏の論文「戸隠の修験道」には、「江戸時代に檀家の求めに応じて、神札護符|この山にも午王宝印(カラスを左右に、竜蛇すなわち九頭竜権現の象徴を真ん中に刷り出した)が刷られていた|を特定信者に配布して歩くことはあった。」と書かれている。元禄四年(一六九一)筆写とある写真が掲載され、「戸隠山惣代中道坊・祇蓮坊・自在房〜」など九名の署名が見える。元禄一四年(一七〇一)の『両界山参詣掟』に「大堂関所、本坊より役人出で、札改むべき事〜尤も寺中より午王札・除守の外出し申すまじき事」とある。このほか、常泉院(現常田家)には午王宝印の版木が伝存すると云う 大日如来種子字印文 直径十二センチ、厚さIセンチの円形の版木で、手の握り部分は、昔の鍋蓋のような形である。姿は、胎蔵界大日如来の種字「ア(梵字)荘厳体」で、多義的、複合的に表記されている。外周下部に蓮弁をつけ、上部は火炎状の彫り物がある。これは例えば享和二年(一八〇二)の「中院本堂宝物・道具書上帳」の記事「御印文 中院衆徒 ふくさ・箱 宝暦八寅八月十四日 施主徳善院」や『戸隠山御本社御宝物別書』(弘化四年八月)の「一 御印文 錦ノ切包 二通」に云う「御印文」である。もとは二つあったと思われ、他の一つは、金剛界大日如来の種字「バン(梵字)」であったと思われる。因みに真言「アビラウンケン」「バザラダトバン」には一字一字に意味があると大正大学の中川先生から教えていただいた。 大日如来‥摩訶毘蘆遮那は大遍照の意で真言密教では本尊。宇宙を照被する大日輪の意で、一切世間の万物を哺育する慈母と説かれる。金剛界と胎蔵界の二身があり、前者は「智」、後者は「理」を示している。 御印文についての史料はわずかであるが、次のようなものがある。 戸隠の御印文史料 天保十三年(一八四二)「中院衆徒雑宝録」の記事 ― 一月三日、別当より衆徒に印文を授ける― 安政七年(一八六○)『奧院雑籍』 ― 一月三日、本院神前で御印文を頂戴する― 文久二年(一八六一)八月十日『中院雑宝記』 ― 仁科太々講に老分から御印文を授ける― 元治元年(一八六四)五月二一日 ― 善法院取次神楽の際、施主三十二人へ御神幣を授ける― 同年八月九日 ― 浄智院取次神楽の際、施主願いにより宝幣修法を行う― |
式年祭の記録から 延享五戊辰年 高盛大御膳金子本帳控 二月吉祥日 中院衆徒 ※中院衆徒共有 戸隠神社寄託で、表題を「延享五戊辰年 高盛大御膳金子 本帳控 二月吉祥日 中院衆徒」と云う文書が現存する。以下に翻刻を示す。 延享四年当山開帳ニ付大(太)々神楽令興行之處上野村山口市左衛門願主并武陽本舩町堀木太郎兵衛柴田甚三郎、相加り神楽興行候得共其節奉納金不足□□(ニ付)市左衛門相補相勤候處、延享五年之春金三両弐歩堀木氏柴田氏奉納ニ付、市左衛門 本坊江奉納、依之右之金子貸付、年々之利足、(息一以下同)本金取立、金弐拾両積候て、右之利子を以四月十八日七月八日九月十八日、於中院本堂高盛大御繕献備之志望也 向後奉納之施主有之者、本帳ニ印し無粉失様可相守 尤本院院代中院老分并代官立合年々手形吟味相遂無相違様可致候者也 但潤(閏)月者利足可相除侯 院代 金葉院 印 同 浄門院 印 代官 大出喜八郎 印 延享五年 戊辰二月吉日 天僧都恵含御代 右之通被 仰付奉畏候 老 分 智泉院 印 同 宝泉院 印 年行事 正智院 院 一 金三両弐分 施主 市左衛門 一 金壱分五十六文 延享五年七月より 暮迄之利足 一 三貫四百五四文 本院御寄付 一 弐分六百十八文 巳ノ年利足 寛延二年暮迄 元利〆五両六百十八文也 預り主 小川六兵衛 (※以下寄進金額省略 寄進者氏名のみ) 徳善院隠居 普寛 小川六兵衛 小川元之丞 徳善院 恵照坊 小林四郎兵衛 原山六郎右衛門 真乗院 西勘左衛門母 同人妻 金壱両三百文 寛延三年暮利足 寛延三年ノ暮 惣勘定 惣高〆拾両三歩九百九拾文 (大意) 一 延享四年(一七四七)に国元開帳を行った。 二 それに関して上野村の山口市左衛門が願主となり、さらに江戸本船町の堀木太郎兵衛と柴田甚三郎が加わり太々神楽を興行した。 三 その節、堀本・柴田氏は奉納金を所持していなく、市左衛門が立て替えて神楽を奉納した。 四 翌延享五年春、堀木氏と柴田氏が三両二分を奉納した。 五 そこでこの金を毎年貸し付け、その元利金を積み立て金二〇両に増やし、その利息を使い、毎年四月十八日・七月八日・九月十八日の中院御祭礼に、高盛大御膳をお供えしたい。 六 今後奉納申し出があった場合、この帳面に記録して紛失しないように本坊院代・中院老分・代官の立合いの下、年々手形(貸し付け証文)を点検し間違いのないようにする。 |
《解説》江戸出開帳と国元開帳 ◆現在伝わる最古の記録 これまで天明四年(一七八四)、栗田大膳が善光寺町の有力者から寄進を募って百三十五両の基金を作り、その貸し付け利子で永代太々神楽を興業したことが史料的に確かな一番古い記録であった。 それに対して、本史料によって三十七年さかのぼった延享四年に太々神楽が行われたことが分かった。しかも、元禄十三年(一七○○)に江戸出開帳、翌十四年国元開帳の次、天明五年(一七八五)国元開帳が行われるまでに、少なくとも一回国元開帳が行われたことも判明した。 ◆かい間みえる江戸の経済活動 さらに願主山口市左衛門の協賛者として、江戸本舩町の堀本・柴田の二人が資金を出し、即納する金を持ち合わせていない為、山口市左衛門が立て替え、翌年三両二分を納めた。それを本坊に納入し、運用して弐拾両迄増やす計画を立て、目標額が達成したらその利息分で中院祭礼に高盛御膳を献備したいという趣旨である。 施主市左衛門が出した元金三両弐分と利息、本坊が寄付した銭、延享六年巳年の利息合わせて五両と銭六一八文と記録され、追加の文中に記された金額と氏名は、目的に賛同した人々と寄進金と思われる。 小川六兵衛や西勘左衛門は上野村の代官、徳善院並びの恵照坊・真乗院は中院・奧院の衆徒。小林・原山は上野村の庄屋か有力者である。その結果、寛永三年(一七五○)暮現在合計一○両三分と銭九九○文になった。 ◆協賛者、江戸本舩町の二人とは? 山口市左衛門はどういう人物か? 江戸本舩町の堀本・柴田両人とどのような縁故があったのか。 江戸本舩町は現在の東京都中央区日本橋本町一丁目・室町一丁目で商業の中心地である。(東海道四五番目の宿場庄野宿川俣神社の常夜灯を寄付した願主に伊関善治がいる。)「本舩町組」という魚類を商う問屋が軒を連ねている。外に綿打ち道具の問屋も見える。市左衛門が麻の商いなどで江戸へ出向いたか、あるいは江戸から上野村へやってきたのか。三両二分(現在の約三十万円)を出すというのは、信心もさることながら資産家でなくてはできない。しかも手持ちの金がなく市左衛門が立て替えたというのは、相当深い信頼関係があったことを物語る。 ◆信頼関係を築いていた人々 堀木・柴田氏がなぜ戸隠に来たのかと云う疑問について、「麻の買い取り」を想定する。小川代官の日記宝永三年二月二三日に「残りの麻を売り渡す」と云う記事が出ており、戸隠では換金作物として、麻の栽培が盛んで、夏収穫した麻を冬、畳糸に仕上げて売ったのである。 山口市左衛門の身分について推測すると、『安永三年水内郡上野十一カ村柏原境塚改等』に「庄屋市左衛門」が載っており、訴訟の内容は、戸隠の中社宝光社の村人が柏原(バードライン、そば博物館西―通称立道の周辺)の草地を開墾し、従来上野村の人たちの草刈場が侵されたということの訴訟である。(安永六年の同様な訴訟文書にも「庄屋市左衛門」とある)。 延享五年ころの庄屋と同じかが問題であるが、世襲して勤める例が多いので多分地位は同じと思われる。寄付をしている他のメンバーが、代官の小川・西家をはじめ、当時の名のある立場の人びとであるので、市左衛門の身分も庄屋クラスが妥当であろう。 ◆三宝で供えた「御高盛」 御高盛について、時代が後になるが、「天保八年江戸小諸御屋敷御高盛」が参考になる。信州小諸城主牧野家の江戸屋敷から、権現様・九頭龍様に御高盛御膳を上げる文書で、三宝に野菜や花を盛って献備するのが「御高盛」である。供えた後「武運長久・家中安全」のご祈梼をし、御札を届けている。水野家や戸田家など大名家の御高盛献備の例もある。堀本・柴田氏の場合、本舩町の問屋等、資産家だったと思われるので、御高盛献備をするのにふさわしい。 ちなみに、中社の極意家(旧徳善院)の御神殿は文化年間に作られたが、江戸深川材木問屋「神戸屋長八」の寄進である。問屋仲間には交流があったと考えられ、堀本・柴田氏が戸隠訪問する必然性がある。 寄進に協力した者の中に徳善院と同家隠居の名があるので、堀木・塚田氏も徳善院の檀家筋であったかとも思われる。 |