平成24年度企画展

柱松特別祈祷祭開催記念企画展
「柱松神事」

中世からの水脈をたどり復活した柱松(はしらまつ)神事

戸隠神社柱松神事の歴史は、古く鎌倉時代に遡ります(『顕光寺流記並序』)。江戸時代末期、故あって中断され、現在に至っていましたが、平成十五年の式年大祭を機に復活されたのです。

柱松神事は、八月の大祭の折、三本の幣束を火にかざす「火祭」の中に僅かにその名残を伝えていると言われてきました。これをできる限り正確に復活するために、資料収集や文献調査を行い、また、他所に残る同様の神事についても研究調査を重ねました。そして『千曲之真砂』(宝暦三年・一七五三刊)付録「水内郡戸隠山三社例祭之事」の条に「格別異なる神事故ここに記す」と記されていた柱松神事の概略(一端)。『善光寺道名所図会』(天保十四年・一四八三刊)に描かれていた同神事の図。さらに江戸時代、戸隠一山から上野寛永寺に提出した「戸隠山三所権現祭礼次第」。松代藩絵師が描いた「戸隠山祭礼図巻」(真田宝物館蔵)などを精査し、これらをより処として柱松神事を復活させました。

 

柱松の再現

明治維新前の戸隠は、奥院・中院・宝光院からなる神仏習合の地でした。戸隠山顕光寺の縁起によれば、嘉承二年(八四九)学門行者によって戸隠寺(奥院)がまず開かれ、康平元年(一○五八)宝光院が、さらに三十年を経て、中院が開かれたことを伝えています。平安時代はすでに天下に知られた修験の霊験所となっていたことが「梁塵秘抄」に記されています。

戸隠神社の柱松神事は鎌倉末期には始まっており江戸末期に中断されるまで行われていたことが明らかになっています。神事は戸隠三院が別々の日に実施していましたが、内容は同じものだったようです。復活再現した柱松神事は、中院で行われていた様子を想像し、組み立てられました。

 

柱松のかたち

柱松とは、一般には下部を地中に埋め立てた松明(たいまつ)のことを言い、立てて明かりをとるものです。柱松の形は、一般に杭のように立てた柱の先に松明を結んだような形が多いのですが、戸隠の柱松は松の木を使わず、竹や雑木などで四角錐状に組み立てたものです。

中院は、弊竹と呼ぶ根曲竹を四角錐状に組み立て、先端に「中院大権現」の幟を、宝光院は細めの雑木を使い「宝光院権現」の幟を、奥院は、中院の弊竹と宝光院の雑木を混ぜ合わせ、「奥院大権現」の幟を立てています。これは善光寺道名所図会に見られるかたちを現代の解釈で復活させたもので、三院の風土を象徴し表しています。

 

柱松神事の構成

復活した柱松神事は、「特別祈祷祭」「行列」「柱松山伏(松山伏)の「入峰修行」「験比(けんくら)べ」「火祭り」「直会」の六つの流れに組み立てました。

一、特別祈祷祭 戸隠一山全聚長が奉仕して「柱松特別祈祷祭」を中社社殿内で執り行います。

二、行列 特別祈祷祭に奉仕参列した一行は、召し立て役によって中社社殿庭に整列、お祓いを受け、行列を整え、中社広庭の祭場に向かいます。

三、入峰儀式 戸隠が山岳修験の霊地として栄えた時代、修験者(松山伏)たちが戸隠霊山に入峰するための儀式。先達のしめ縄切り儀式の後、修験者が一斉に山に駆け登ります。

四、験比べ 修験者(松山伏)たちが入峰・霊山修行を終えて山を降りてくるまでの間、先輩修験者たちが修行の成果と霊験を競います。

五、火祭り 柱松に火が移され、修験者や神事参加者が「大祓い」や「般若心経」を唱えながら柱松の周りを巡ります。神事特別祈願串のお焚き上げ(護摩供養)が行なわれます。

六、直 会 祭典が終わり、神と人とが共に会食します。(一般の参加者には、樽酒が振舞われ、お供えされた餅・菓子などを投げ振舞う「散弊」が行なわれます。)



戸隠祭礼図巻

江戸時代にはいると、戸隠三院は幕府の朱印地(神領千石)として寺社奉行支配下に入り、東叡山寛永寺(江戸)の末寺となり、地域的には松代藩と深いつながりを持つことになりました。松代藩の絵師・三村晴山によって描かれた『戸隠祭礼図巻』には、江戸時代末期の柱松の詳細が美しく描かれています。そこには、鎌倉時代に山岳修験の神事だった柱松が、見物人も多く訪れる大変賑やかな法事として開催されていた様子を偲ぶことができます。明治維新の神仏分離政策によって修験道や仏教色の強い柱松神事は中断されました。「戸隠祭礼図巻」は江戸時代末期に描かれたもので、柱松が一般的な松明型に変化している様子が描かれています。


華やかに開催されていた柱松と戸隠山顕光寺中院(現在の中社)の様子

柱松当日の中院境内の様子、鳥居前広場に三つの柱松が立てられています。中院本堂や、左の戸隠山顕光寺本坊には昭和十七年の火災前の様子が見てとれます。
中院前の階段を勢い良く登って行く祭礼列、右下の茅葺屋根の建物は法華堂を改装した神楽殿で、現在は五斎神社拝殿となっています。左の三本杉は、今も同じ場所にあります。納経供養塔は明治初年の神仏分離令で中社大門に移動しています。
見物人の喝采を浴びる修験者たちの「験比べ」
釈迦如来を本尊に据えた中社本堂の内陣には御幣が置かれ、結界の中で華やかな袈裟をまとった高僧たちが読経し内陣を廻り歩き祈祷しています。
祷竹(とうちく)という悪魔払いの儀式悪魔(上図左、赤い鳥兜の人物)を降伏させようと対決する修験者と、周りを囲んで竹束を床に打ちつけ、不動明王の真言を大声で唱える弟子僧たち、下図の大団扇には「両界山」の文字が書かれています。


『戸隠祭礼図巻』(複製) 原本 真田宝物館所蔵(江戸時代末期)

◆全5巻を絵巻としています。
◆第1景は戸隠全山の鳥瞰図で、裏山・表山・西岳を遠景として、奥院・中院・宝光院を配しています。
◆第2景は3本の柱松が鳥居の前に一列に並べられた中院鳥居付近がクローズアップされています。階段を上る衆徒や家来の行列、白山・飯縄・常住大権現を表す幟を担ぐ者、「両界山」と大書した軍配団扇担ぐ者などが絵に見えます。
◆第3景は奥の須弥壇を巡る緋の衣や袈裟けさを着た老僧たちの法華三昧の法会を描き、外陣(前の部分)の板敷では、僧たちが魔を降伏させる降魔の様が描かれています。廻りを取り囲んだ修験行者が手に竹の束を持って床を叩くことで魔を祓う「祷竹」という名の神事で、戸隠神社と縁深い関山神社でも行われていました。
◆第4景は朱の鳥居と広前が描かれ、長刀を持った修験者3人が対決している験比べがアップされ、周囲に大勢の人垣ができています。
◆第5景は柱松への点火、フィナーレが描かれています。三院の各代表(先達)が弊を持って神前に走り呪言を唱えた後、その弊を持ち柱松に駆け寄り待機している人に弊を投げ渡し弊を柱松に立て、神が宿った柱松に火をつけ豊凶を占ったようです。
◆着飾った男女大勢の見物人が柱松を取り囲み華やかな、楽しそうな光景が描かれています。作者・年代は不明ですが、江戸時代末期の作品で、絵師は松代藩お抱え絵師三村晴山ではないかといわれています。

 

文献にみる柱松

其の1

夏の末又柱松と云い、煩悩業苦を焼尽し、並びに一夏行徳の威厳を顕わす。是中院よりはじむ、因より果に至る心なり。『顕光寺流記』より (長禄二年・一四五八写を訓読)

目的として煩悩業苦を焼き尽くすこと並びに一夏の修行の効力を競うこととしている。

 

其の2

第三十三代寛清別当(中略)永仁五年七月柱松、行人、老僧と論じ火を指さず打ちおわんぬ。

別当職位之事より (永仁五年・一二九七年を訓読)

柱松を行う際、老僧と修験者とが言い争って、結局柱松に点火しないで終わったという記録で、これ以前から柱松が行われていたことを示す記事でもある。行を重んじる修験者と学僧との対立があったと思われる。

 

其の3

七月八日 巳上刻出仕

一御祭礼於 神前法事法華三昧導師勧修院 三院衆徒惣出仕 伽陀回向 其外古法神事有之

『中院 戸隠山年中行事』より (元禄十一年一六九八年写)

本山寛永寺から本坊勧修院へ示達された三院の年中行事文書。「古法之神事」とは柱松の事で天台宗の方式に則って行われた江戸時代においても、修験道に由来する柱松は伝統を守って行われていたことを示す。

 

其の4

同(七月)八日三院衆徒御礼伺公

金義上下(裃)ニて忌屋迄社参

同日上野より家中参詣

同十日宝光院へ参詣 忌屋迄伺公(候)

小川代官『日並記第一』より (元禄十五年 一七〇二年)

柱松を見物するため家内全員が参詣している。忌中にあったので、本来なら本堂まで参詣するところ、忌屋(祓所)までに遠慮している。

 

其の5

我山ノ神事柱松ノ時ハ必ズ白山明神影向シ玉フ故ニ、三本ノ幣帛ヲ捧テ、中ヲ常住ト号シ左右ヲ飯縄・白山ト名ルハ、学門行者ヨリ始マレリ。

『戸隠山大権現縁起』乗因著より (元文元年 一七三六年)

泰澄行者から学門行者への伝法譚の一節。白山に上った二人の前に、九頭龍が現れ衆生済度の願を許した。これが戸隠柱松神事で、三本の柱を九頭龍権現・飯縄・白山三柱の神をかたどることの由来と説く。

 

其の6

神国ニハ天ノ岩屋ノ前ニ立テ庭燎ヲ挙テ巧ニ俳優(ワザ)ヲ作シ、火処ニ焼ウケヲ置テ踏トドロカシカンカガリス、ト先代旧事記ニ見ヘタレバ、柴燈ノ祭礼ハ、(中略)本朝ニテハ神代ヨリ今ニ相続スル神事ナリ

『戸隠山大権現縁起』乗因著より (元文元年 一七三六年)

柱松の起源を説く部分で、日本では天鈿女命が神がかりしたことに由来すると説く。中略部分では中国の柴燈が、天の神に捧げる火を焚く事で、煙が盛んに立ち上り人間の願いを天の神に伝えるとしている。

 

其の7

水内郡戸隠山三社御祭り、格別異なる神事故こゝに記す也、宝光院七月八日、中院七月十日、奥の院七月十五日也、右三度ともに式同じ、先庭に高き八九尺の大竹束を立、殿中より山中五十三坊のたすきをかけ、鉢巻して其出立ことごと敷異相也、一時余り立ながら祈誓し、其後おのおの持たる幣を、彼竹たばの上に立置、坊の内より一人火を持て彼竹束にのぼる、右の幣帛に火を点し、扨其下にて坊三人長刀の鞘をはづし振廻し、いろいろに遣ひておのおの退散す、いとふめつらしき神事也

『千曲之真砂』瀬下敬忠著より (宝暦三年・一七五三年)

火祭り・長刀の試合に触れた早い時期の記録として貴重で、橇引き事件以前の三院の衆徒の惣出仕による盛大な祭を思わせる。「襷を掛け鉢巻きし」というのも「祷竹」の場面に描かれている修験者の様子に似ている。瀬下敬忠は佐久郡三塚在住の豪農。各地を旅行し戸隠柱松に関しても聞き伝えなどを記した。

 

其の8

このふん月(文月)七日のかんわざは柱松とて、いと高き柱を、三もと立て、この柱に、三のかんやしろのみなをたぐえて、立たるはしらのうれごとに、柴をつかねて、火をさとはなちて、とくしぞき、これをあふぎ見て、すみやかに火のうつり柴のもえあがるは、いづれの神のおほん柱ぞと見て、其年の田のみ、よしあしの、うらひをなんせりける。このとしは、手力雄命のおほんはしらに火はやうかかりて、かちたまへば、此のとしのたなつものやよけん

『来目路の橋』菅江真澄著より (天明四年・一七八四年)

六月三十日に洗馬を発ち、七月二十六日、戸隠山に参詣。三十日、野尻の宿を後に越後に入る間の日記である。鬼女紅葉退治についての伝説を紹介した後に柱松の記事が載っている。鬼を討ち果たしたのが七月七日〜九日の三日間だったとして、鬼女の霊を弔う紅葉会を行った事に柱松を関係づけている。三本の柱に三社の神名をそれぞれなぞらえて、柱の頂に束ねて点火し、その年の作柄を占った。この年は手力雄命の柱に早く点火したのでたなつもの(米)が豊作だとしている。

 

其の9

御本坊へ祭礼悦一同上ル 四ツ時神前へ三院惣出仕 中宝両院 松之元宝蔵院参ル 御前御導師御法事御神酒済 御祭礼式有之 桟敷番両人出ス 神楽殿借用ニ松王参り

(略)

一 同日御院代江寿教院徳善院之長刀之長刀之節、弁慶坊・土佐坊等口上、当年ハ隠密等も参ルと之事も無之処宜敷無之 而能々此度者申入置

『中院衆徒雑宝記』より (天保七年 一八三五年)

祭礼の中に、獅子舞を行ったことは、「三社祭礼之次第」にも載っているが、これを担当したのが徳武松王で、舞われた場所は神楽殿(中段手水舎の前)だったことがわかる。翻刻が一部不明で原本と対照する必要があるが、飯縄山論の裁判に関連して寺社奉行所の隠密が来るかもしれないので、柱松の長刀訳詞口上に手加減を加える必要が生じたらしい。「弁慶坊・土佐坊」という呼び名がなぜ遠慮しなければならないか、理由がはっきりしないが、とにかく長刀の試詞のかけ声の一端が判明するのは貴重である。


戻る