常設展示


  二つの重要文化財
牙笏 紙本墨書法華経残闕
笏の素材はアフリカ象の牙で、牙笏と呼ばれるものは、日本に六枚しかない(象牙製が他に正倉院に二枚、大阪の道明寺に菅原道真の遺品と伝えられる一枚、鯨の骨製も牙笏と呼ばれ正倉院に一枚、元は法隆寺にあって現在は東京国立博物に一枚ある)。 本品は「通天笏」と呼ばれる正倉院御物と大きさが同じであり、双子の一つと思われる。
なぜ戸隠に伝わるのか夢をかき立て、江戸時代に顕光寺の別当であった乗因は持統天皇奉納と伝える。
平安時代後期、貴族の間で盛んに行われた写経の装飾経(そうしょくきょう)の一つ。筆者は能筆家(のうひつか)の藤原定信(さだのぶ)(1088〜不明)と伝えられている。一行に八基の多宝塔(たほうとう)雲母刷(きらず)りし、その一基に一字ずつ漆黒の済みを用いて法華経が達筆に書かれている。そのために江戸時代には分割されて出回り「戸隠切」といわれ、古筆家の間で珍重されたが、今となっては残念なことである。
昭和九年、国の重要文化財指定。
戸隠信仰の変遷をたどる
一 九頭龍大神(おおかみ)

奧社の九頭龍大神は九頭一尾鬼とか九頭龍権現とか言われてきましたが、戸隠山を神とする九頭龍信仰が、戸隠信仰の根底にあると思われます。江戸時代には水の神、農業の神として東日本を中心に戸隠講が広まりました。

農村での戸隠講で掲げられた九頭龍権現軸
雨乞いの元となる種池の水を村に運んだ水桶
九頭龍大神に使える参籠の心得 九頭龍のお札

などを展示します。

二 修験道の霊場
威力をもった九頭龍を押さえて地主の神として祭ったのが山岳修験者たちです。表山三十三窟がその修業の場で、西窟からは仏像の破片が採取されています。静岡県遠州の秋葉山の秋葉三尺坊大権現となった三尺坊もここ戸隠で修行をしたと伝えられます。修験の場も次第に整備された寺となり、室町時代の般若心経を印刷する版木も残されています。 戸隠山顕光寺は神仏習合の寺として発展しましたので、不動明王御正躰(県宝・平安時代)や戸隠山の鎮守となる飯縄権現立像(江戸時代)なども見ることが出来ます。
三 天の岩戸開き神話
 戸隠山の名前とその異様な形から、鎌倉時代になると戸隠山は天の岩戸が落ちてきて山となったという伝承が広まり、やがて奧院に手力雄命、中院に思兼命の命、宝光院に表春命が祭られるようになり、それぞれ本地を聖観音、釈迦、地蔵とする本地垂迹関係が成立します。さらに火之御子社には宇受売命が祭られます。
 仏像と異なって鏡で神を現すことの多い神道では神像というものは少なくて、岩戸開き神楽絵(岡本豊彦・江戸時代)、古神楽面(江戸時代)、奉奏代々御神楽額、神楽鈿女舞など神楽関係にその古い名残をとどめています。
四 神仏分離令

慶応四年三月の神仏判然令(はんぜんれい)によって、神仏習合であった戸隠山顕光寺は仏を分離して、明治元年の十一月二十五日に神社としての道を歩き始めます。

山千(さんぜん)寺・岩殿(がんでん)寺・宝界(ほうかい)寺等の末寺は、顕光寺を離れました。仏像・仏具等のうち奥院の聖観音は千曲市長泉(ちょうせん)寺へ、中院の仁王像は小布施の岩松院(がんしょういん)へ、宝光院の本地将軍地蔵は善光寺大本願へと、それぞれ仏縁(ぶつえん)辿(たど)って移されたり、一山中に秘匿(ひとく)されたりして廃仏・分離され、奥社・中社・宝光社の社殿内から姿を消しました。

『久山理安日記』は顕光寺最後の別当であり、戸隠神社最初の神主である久山理安の京都、東京に於けるこの寺から神社への変遷を乗り切るための苦闘を記録したものです。

垂迹曼荼羅も仏中心のものから神中心のものへと変わっていきました。




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